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『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』
M.ウェーバー 著 中山元 訳
2010年刊 日経BPクラシックス



新訳で読みやすくなった『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』。
100年以上前の社会学の本なので、現在とは感覚の違いも感じますが、
今でも(翻訳で読んでも)堂々とした印象を受ける名著です。
キリスト教文化圏にいない者にとっては、
細かい宗派の違いなどはわかりにくいですが、
それでも<宗教>から<産業>への大きな流れには深く納得させられます。
<呪術からの解放>から<鋼鉄の檻>への展開はドラマチックで、
この本自体が神話化する理由でしょう。



 



以下、本文より・・・

第1章 問題提起

第1節 信仰と社会的な層の分化
・[プロテスタンティズムの]支配は、家庭内の私的な生活から
職業的な公的な生のすべての領域にいたるまで、
考えられるかぎりでもっとも広い範囲にわたって
信徒の生活のすべてを規制するものであり、
限りなく厄介で真剣な規律をともなうものだった
・教育によって獲得した特性が、とくに故郷と実家の宗教的な雰囲気によって
決定された教育の方向性が重要な役割をはたしている
・ゴータインが、カルヴィニズムのディアスポラ[散在]を
[資本主義経済の育成所]と呼んだのも正しい
・一般医「労働の精神」や「進歩の精神」など、
さまざまな名称で呼ばれてきた精神は、
プロテスタンティズムによって喚起されたものとされる傾向があるが、
これを現在ではよく行われるように、
「現世享楽的」なものとか「啓蒙主義的な」ものという意味で
理解してはならないのである

第2節 資本主義の「精神」
・この「吝嗇の哲学」の特徴は、
人に信用される立派な人柄という理想であり、
何よりも自分の資本を増やすことを自己目的とするのが
各人の義務であるという思想である。
・フランクリンの言葉には、倫理的な色彩をおびた生活の原則が語られている
・「資本主義」は中国にも、インドにも、バビロンにもあったし、
古代にも中世にも資本主義はあった。
しかしこれから検討するように、こうした資本主義には
ここに固有にみられるエートスが欠けていた
・この「倫理」の最高善(スマム・ポヌム)は、
あらゆる無邪気な享楽を厳しく退けて金を儲けることにある。
・金儲けは、それが合法的に行われるかぎりは、
近代的な経済秩序においては、職業における有能さの現れであり、
それがもたらした産物である。
そしてすぐに理解できるように、この能力の高さこそが、
フランクリンの道徳のアルファでありオメガとなっている
・この思想は資本主義の文化の「社会倫理」に特徴的なもの
・現代の資本主義的な経済秩序は巨大な宇宙(コスモス)であって、
各人は生まれるとともにこの宇宙のうちに入るのである。
すべての人は少なくとも個人としては、
この改造することのできぬ<檻>のうちに住むことを、
事実として強いられているのである。
・ベンジャミン・フランクリンの生地せあるマサチューセッツでは、
わたしたちが想定した意味での「資本主義の精神」というものが、
「資本主義的な発展」に先立って存在していた
・古代や中世において市民的な資本主義の圏域の外部にいる人びとのうちでは、
こうした資本主義的な圏域の内部にいる人々と比較すると、
金銭欲、あの呪われた黄金への欲望というものが少なかったためでもない。
・西洋の発展を尺度として比較すると、
市民的な資本主義の発達が「遅れがちな」諸国に見られる
何よりも顕著な特徴は、営利活動において、
自分の利益を何よりも優先するこうした絶対的な厚かましさにある。
・この心構えから、大量現象として(このことが大切なのだ)、
近代の資本主義に固有の「精神」が誕生したのである。
・平均的な人々がこのような態度を示していたことが重要なのである。
・人は「生まれながらにして」金のために働くのではないし、
できるだけ多くの金を稼ぐために働くのでもない。
ただ生きることを、しかもそれまで慣れてきた方法で生きることを望むのであり、
それに必要なだけ稼ぐのである。←「伝統主義」
・正当な利潤を組織的かつ合理的に、職業として追い求めようとする心構えを
ここでは暫定的に「(近代)資本主義の精神」と名づけておきたい。
・市民的な産業労働のために、合理的な資本主義的な組織が成立したのは、
中世から近世に移行する時代だった
・[生活が厳しいものとなったのは]
競争に負けずにさらに富を増やそうとする人々が、
消費するのではなく、利益を増やすことを望んだからであり、
昔ながらの生活様式を守ろうとする人々は、
節約しなければならなくなったからである。
・資本主義的に利用できる貨幣が
どこから獲得されたかをまず問題にすべきではない。
何よりも資本主義的な精神がどのようにして生まれたかを問うべきなのである。
・市民的なものの見方と原則を身につけて、
醒めたまなざしで弛みなく、緊密かつ徹底的に仕事に従事する人々こそが、
こうした転換を遂行したのである。
・人間が存在するのは仕事のためであって、
人間のために仕事があるのではない。
これは個人の幸福という観点からみると、
まったく非合理であることをあからさまに示して回答である
・富裕な人々は死にあたって「良心の代価」として、 教会の施設に膨大な金額を寄進した。
場合によっては、債務者から不当に徴収した「高利」として、
かつての債務者に返却されることもあった。
・そして民間の資本主義な経済活動の根本的な特徴の一つが、
すべてのものを厳密な計数的な予測に基づいて合理化し、
経済的な成果を実現することを目指してしっかりと計画を立て、
冷静に実行していくことにあったことも、明らかである。
・この「天職」という概念に含まれているあの非合理的な要素は、
いったいどこから誕生したのか

第3節 ルターの天職の観念 ―研究の課題
・聖書の翻訳がこの語に現在のような意味を与えた
→天職としての職業の語(ベルーフ)
・世俗的な職業に従事しながらその義務をはたすことが、
道徳的な実践活動そのものとして、
最高のものと高く評価されたことだけは、
無条件に新しいことなのである。
・ルターは「狂信派(シュヴェルメライ)」や
農民の叛乱と抗議を経験した後は、
各人が置かれている客観的な歴史的秩序は神の意志の現れであり、
この秩序のうちで各人が占める地位もまた、
神の意志の現れであると考えるようになった。
・禁欲的な義務を重視することで、世俗内的な義務が軽視されるという
[カトリックの伝統的な]姿勢が否定されただけだった。
しかし一方では政府への服従と
与えられた生活状態への順応が説かれることになったのであり、
これが唯一の倫理的な収穫だった。←正統ルター派
・自己規律を重視することは、<業(わざ)の仏神化>の
危険な傾向だと考えたのであり、
そのためルター派の教会ではこうした自己規律が
ますます背景に退くことになったのである。
・現世にたいするピューリタニズムの真剣な関心であり、
世俗内の生を、使命として高く評価する姿勢
・他方では、愚かしい教条的な理論に基づいて、
「資本主義の精神」が(ここで検討されている意味において)、
何らかの宗教改革の影響のもとでしか発生しなかったとか、
経済制度としての資本主義が、
宗教改革の産物であるなどと主張してはならない。

第2章 禁欲的プロテスタンティズムの職業倫理

第1節 世俗内的な禁欲の宗教的な基礎
・禁欲的な道徳の<根>となったさまざまな教理(ドグマ)は、
宗派によって大きく違うものではあったが、
やがて激しい闘争の後に、消滅してしまった。
・[その一つは、救いは自己の力によるものではないと考える道であり]
アウグスティヌス以降のキリスト教の歴史のうちには
偉大な祈りの人が登場する
・未聞の恩寵の贈物が、人間の側から何らかの協力によって与えられたとか、
自分の信仰や意志の働きや性質によって与えられたと考えることは、
まったく不可能になってしまうのである。
・人間のために神が存在するのではなく、神のために人間が存在する
←カルヴァン
・人間が頼りにできるのは、こうした永遠の真理の断片だけである。
・神がみずからの栄光を輝かすために
別の[永遠の生を与えるという]決断を下さないかぎり、
神の前ではただ永遠の死に値するだけなのである。
・彼らは救われるためにではなく(それは不可能である)、
神の栄誉のために神の掟を守らねばならない
・神ですら助けることはできない。
キリストが死んだのも、選ばれた者たちのためのこと、
すなわち教会や聖なる礼典によって救いをえられる可能性を
完全に否定したことこそが、
カルヴィニズムがカトリックと根本的に異なるところであり、
ルター主義はここまでは首尾一貫していなかったのである。
・ここにおいて、世界を呪術から解放するという
宗教史の偉大なプロセスが、ついに完了したのである。
このプロセスは、古代ユダヤの預言者とともに始まり、
ギリシアの科学的な思考と結びつき、
救いのためには、あらゆる呪術的な方法を
迷信や邪悪さとして退けるプロセスだったのである。
・神がキリスト者に求めるのは、社会的な営みを遂行することである。
神は、人間の人生の社会的な編成が、神の定めた掟にふさわしいものであり、
神のすべての目的に適ったものとして作られていることを望んでいるからである。
世界におけるカルヴァン派の信徒の社会的な労働は、
ひたすら「神の名誉を高めるため」に行われるのである。
・「隣人愛」は、被造物のためではなく、
神の栄光のために行われるべきものであるから、
何よりも自然法によって定められた職業的な任務を
遂行することのうちに表現されるのである。
そして職業においてこの隣人愛は、
奇妙なまでに事物的で非人格的な性格をおびるのである。
これはわたしたちを取り囲む社会という<宇宙(コスモス)>の
合理的な構成のために役立つものなのである。
・選ばれた人は、<神の見えざる教会>
・予定説の教義が堅持されたすべての地域において、
自分が「選ばれた者(エレクティ)」に属していることを
認識できる確実な<しるし>があるかどうかという問いが、必須の問いとなった。
・この聖徒は資本主義の英雄時代の
鋼鉄のようなピューリタン商人のうちに、
その実例をみいだすことができるだけでなく、
現在でもその実例を発見することができるのである。
・自分が神の力の<容器>と考える人の宗教生活は、
神秘的な感情を培養する方に向かうし、
神の力の<道具>であると考える人の宗教生活は、
禁欲的な行為に向かうのである。
・カルヴァン派の信徒は、みずからの救いを
自分で作りださねばならないのである
(正確には<救いを>ではなく、<救いの確証を>であるが)
しかもこの救いを作りだす方法は、
カトリックの信徒の場合のように、さまざまな功績を積み重ねて
やがては救いに到達することではありえない。
カルヴァン派の信徒はつねに、自分が選ばれているか、
それとも神に見捨てられているかという
二者択一の問いの前に立ちながら、
みずからをたえず吟味しつづけることで、
救いを作りだすことができるのである。
・一つの生活の体系として合理化されていない個別の行為の連鎖
←カトリック
・懺悔の秘蹟こそは、カトリックの教会の
もっとも重要な権力手段であり、かつ教育手段だった。
・司祭が<呪術者>の役割をはたして、
[ミサでの]聖変化の奇蹟を執り行うことで、
天国の扉を開く鍵をもっていたのである。
・カトリックの信徒たちは、罪を犯し、それを悔い改め、
懺悔し、赦しを受け、そしてまた罪を犯すというふうに、
上昇し、下降するプロセスを繰り返しながら、
地上での罪を償っていたのであり、
死に際しては、秘蹟という教会の恩恵の手段によって、
生涯を総決算したのだった。
・「聖徒たち」の生活は、救いという超越的な目的だけに向けられていた。
・西洋的な禁欲は、すでにベニディクテゥスの[修道院の]規律において、
原則として無方針な世界からの逃避や、
達人的な苦行の域を脱しており、
クリュニー会ではこれがさらに明確になり、
最期にイエズス会で決定的なものとなった。
・現在のイギリス人やアメリカ人の「紳士」たちの
最良の類型にみられるような控え目な自己統御
・カトリックもカルヴァン派も、世俗的なものを克服する
巨大な力をそなえていたのであるが、
とくにカルヴァン派はルター派と違って、
「闘う教会」としてプロテスタンティズムの維持に貢献した。
人間の人格の全体を特定の方法に基づいて掌握することによって、
これは可能になったのだった。
・セバスティアン・フランクはすでに、
宗教改革の意義は、すべてのキリスト者が障害にわたって
修道士とならねばならなくなったことにあると指摘
・改革派の教会のもっとも熱心な信徒たちも、
イエズス会が始めた近代カトリックの信仰感情を抱く人々も
(とくにフランスにおいて)、
どちらも信仰日記をつける習慣をもっていた。
・後の世代のピューリタンたちになると、自分の行動だけでなく、
神の行動まで吟味するようになり、自分の人生のすべての出来事に、
<神の指>の痕跡をみいだしたのだった。
・生活のすべてを徹底的にキリスト教化すること、
これこそがルター派と違ってカルヴァン派が倫理的な生活態度に
強く求めた方法論がもたらした帰結だった。
・すべての改革派の禁欲が発展するうちに、
禁欲が厳格に実践されればされるほど
聖徒の宗教的な貴族主義が強まる傾向があった。
・「懺悔の闘い」をもたらすための方法、その結果として、
神の恩寵を獲得することが人間の合理的な計画の対象となった
・すでにリッチェルが明らかにしているように、
感情を重視する純粋な敬虔派は、「有閑階級」の宗教的な戯れなのである。
・<救いの確かさ>を獲得するという目的のために、
生活態度を「特定の方法に基づいて」体系化する特異なやりかた。
この方法こそが、メソジスト派にとっては最初から大切なことであり、
つねに宗教的な活動の中心でありつづけた
・天職(ベルーフ)の理念を解明する本書の目的では、
メソジスト派はこの理念の発達にいかなる貢献もしていない
・みずから信じ、<再生した者>たちだけで構成される団体であって、
「教会(キルヘェ)」ではなく「教団(ゼクテ)」でなければならない
・再洗礼派の諸派は、予定説の信者たち、
とくに厳格なカルヴァン派と同じように、
すべての聖礼典は救済の手段としては価値の低いものとみなしたのであり、
世界の宗教的な「脱呪術化」を最後にいたるまで徹底的に遂行した
・<黙して待つこと>の目的は、人間の衝動的で非合理的なものを克服し、
「自然の」人間の情熱と主観性を克服することにある。
人間が沈黙しなければならないのは、
魂のうちに深い静寂さを作りださなければ、
神が語りだすことができないからである。
・再洗礼派の宗教性が世俗の通常の職業生活のうちに流れ込むとともに、
被造物[である人間]が沈黙するときだけに神が語りたまうという思想は、
信徒が自分の行状を冷静に点検し、
良心を個人的に吟味する方向に教育するものとなった。
・ルター以後は、禁欲を世俗外的な修道士的な形態に向かって進めることは、
聖書にそぐわない<業(わざ)の聖化>として否定されていたのであり、
再洗礼派もこの考え方を受けいれていたのである
・クエーカー派にみられる世俗内的な禁欲が示した特有の形式は、
すでに17世紀の人々が判断したように、
資本主義的な「倫理」のもっとも重要な原則を
実践の面でも確証するものだったのであり、
これは「正直は最後の商略」という諺に定式化されていた。
・教会は個々の信徒の生活を<警察的な>方法で管理したのであり、
カルヴァン派の国営の教会のもとでは
異端裁判と違わないほどの厳しさで行われた。
これは方法的な生活によって救いを求めようとする禁欲的な活動において
個人の力が解放されることを妨げる方向に進むことがありえたのであり、
実際に多くの場合、そうした阻害的な効果をもたらしたのである。
・各個人は、自分の「恩寵の地位」を確保するために、
生活を特定の方法に基づいて管理し、
生活のうちに禁欲を浸透させようとするようになるのであり、
その原動力はここから生まれたのだった。
この宗教的な要求によって、聖徒たちは「自然の」生活とは異なる
<特別な生活>を贈ることを求められたのだが、
この生活は(これが決定的に重要なことなのだが)、
もはや世俗外の修道院での共同生活ではなく、
世俗内で、世俗の秩序ただなかで送られる生活なのである。
・キリスト教の禁欲は、修道院から出て
[世俗の]生活の<市場>のうちに姿を現し、
修道院の扉はその背後で閉ざされたのだった。
そして世俗の日常生活に、
その[禁欲的な生活の]方法を浸透させて、
日常生活を世俗内的な合理的な生活に作り変えようとしたのだった
(ただしその生活は世俗による生活でも、
世俗のための生活でもなかった)。

第2節 禁欲と資本主義の精神
・天職の理念をもっとも首尾一貫した形で基礎づけたのは、
カルヴァン派から生まれたイギリスのピューリタニズムである
・神の栄光を増すために役立つのは、怠惰や享受ではなく行為だけであることは、
神の意志として明確に啓示されている。
だから時間を浪費することは、
すべての罪のうちでも第一の罪であり、原則としてもっとも重い罪である。
人生の長さは、自瓶の召命を「確証する」ためにはあまりに短く、貴重なものである。
時間を失うのは、人との社交や、「怠惰なおしゃべり」や、
贅沢によるものだけではない。
健康に必要とされる時間(6時間から最大でも8時間)を超えて寝ているのも、
道徳的には絶対に咎めるべきである。
・労働なそれ以上のものである。
何よりも、神が人間の生活の自己目的として定められたものなのだ。
「働きたくない者は、食べてはならない」というパウロの言葉は、
すべての人に無条件にあてはまるのである。
・経済的な秩序(コスモス)を神の摂理として解釈する営み
・「職業が固定されないと、一人の人間の労働の生産性は、
不安定な臨時雇いの人の労働の生産性と変わらず、
仕事の時間よりも怠惰に過ごす時間のほうが長くなるものだ」
←バクスター
・神が要求するのは労働そのものではなく、合理的な職業労働である。
・「肉の欲や罪の目的のためではなく、
神のために、働いて豊かになるのはよいことなのだ」
・もちろん旧約聖書の言葉そのものは、明瞭なものではなかった。
言葉としては、ルターg「シラ書」の翻訳において、
[それまで召命という意味で使われていた]ベルーフという語を
世族的な[職業という]意味で初めて使った
・ユダヤ教は政治や投機を志向する「冒険商人的な」資本主義の側に立つのであり、
そのエートスを要約すると、パーリア的な資本主義のエートスであった。
←パーリア=賤民/社会資本の無いうえに営利だけを求める
・これにたいしてピューリタニズムのエートスは、
合理的で市民的な事業と、労働の合理的な編成のエートスだった。
ピューリタニズムはこの枠組みあう倫理だけを、
ユダヤ教の倫理から抜きとって採用したのである。
・ピューリタンは「迷信」の匂いのするすべてのもの、
呪術や儀式で恩恵を授けようとする営みのすべての残滓を激しく憎悪したのであり、
五月柱(メイ・ポール)や教会の無邪気な芸術行事を迫害しただけでなく、
キリスト教に固有のクリスマスの祝祭まで迫害したのである。
・ピューリタニズムは生活スタイルを
画一的なものにしようとする強い傾向を示したが、
それは被造物の物神化の拒否ということが、
理念的な土台となっていたのである
―現在ではこの傾向は、生涯を「規格化する」ことを求める
資本主義の要求として表現されているのであるが。
・プロテスタンティズムの世俗内的な禁欲は、
自分が所有するものをこだわらずに享受することに全力をあげて反対し、
消費を、とくに贅沢な消費を抑圧した。
この禁欲はその反面で、財産を獲得することにたいする
伝統主義的な倫理的な制約を、
解き放つ心理的な効果を発揮したのである。
・世俗の職業を弛(たゆ)みなく、不断に、組織的に営むことは、
そのままで最高の禁欲的な手段とみなされたのであり、
<再生した者>とその信仰の真正さを
もっとも確実な方法で証明するものとして宗教的に高く評価されたのだった。
そしてこれが、わたしたちがこれまで資本主義に「精神」と
呼んできた人生観を広めるために、
考えられるかぎりでもっとも強力な「テコ」として働いたのである。
・ここまで述べてきた消費の抑圧と、
この営利の営みの解放とを一つに結びつけてみよう。
その外面的な結果がどうなるかは、すぐに理解できる。
禁欲という手段が節約を強制しながら、資本が形成されるのである。
利潤として残された資金を消費の目的で支出することが妨げられるならば、
それは投下資本として生産的に利用されねばならなかった。
・「わたしが懸念しているのは、富が増大すると、
その分だけ宗教の実質が減少してしまうことである。
だから事柄の本性というものを考えるならば、
真の宗教の信仰復興をどのようにして持続させることができるのか、
わたしにはわからない。
というのも、宗教は必ずや勤労(インダストリー)と
節約(フリュガルティ)をもたらすのであり、
この二つは必ずや富をもたらずにはいない。」
←ジョン・ウェスレー、メソジスト
・わたしたちは信徒たちが勤勉になり、
節約するのを妨げることはできない。
わたしたちはすべてのキリスト者にたいして、
できるかぎり多くの利益を獲得するとともに、
できるかぎり節約するよう戒めねばならない。
しかしその結果はどうなるかというと、
富が蓄積されるということなのだ」
←ジョン・ウェスレー、メソジスト
・ピューリタニズムという強力な宗教運動が経済的な発展にもたらした影響は、
まず何よりも信徒に禁欲という訓練を与えたことである。
しかしそれが経済への影響を全面的に示すようになるのは、
ここでウェスレーが語っているように、
通例は純粋に宗教的な熱狂がすでにその峠を越して、
神の国を求める痙攣的な情熱が次第に醒めて、
職業的な道徳へと解体されてしまい、宗教的な<根>が次第に枯渇して、
功利主義的な現世主義が登場するようになってからのことである。
・思想の宗教的な<根>が死滅すると、
功利主義的な傾向が知らず知らずのうちに入り込んでくるのだった。
・近代の労働者の特徴は、労働を「天から与えられた職業」と考えることであり、
近代の実業家の特徴は、営利を「天から与えられた職業」と考えることである。
・近代の資本主義の精神を構成する本質的な要素の一つ、
そしてたんにそれだけでなく近代の文化そのものを構成する本質的な要素の一つは、
天職という観念を土台とした合理的な生活態度であるが、
(この論文ではこれを証明しようとしてきたのである)、
この態度はキリスト教的な禁欲から生まれたものだ。
・ピューリタンたちは職業人であろうと欲した。
しかしわたしたちは職業人でなければならないのである。
かつては修道院の小さな房のうちで行われていた禁欲が、
現世の職業生活のうちに持ち込まれ、
世俗内的な倫理を支配するようになった。
そしてこの禁欲は、自動的で機械的な生産を可能にする
技術的および経済的な条件と結びついて、
近代的な経済秩序のあの強力な宇宙(コスモス)を構築するために貢献した
・バクスターは、外的な事物についての配慮は、
「いつでも脱ぐことのできる薄い外套」のように、
聖徒の方に掛けられているべきだと考えていた。
しかし運命はこの外套を、鋼鉄のように硬い<檻>にしてしまった。
禁欲が世界を作り直し、世俗の内部で働きかけようとしているうちに、
これまでの歴史においてかつて例がないほどに、
世俗の外的な事物が人間にますます強い力を及ぼすようになり、
ついに人間はこれから逃れることができなくなったのである。
・現在では禁欲の精神は、この鋼鉄の<檻>から抜けだしてしまった
(それが最終的なものかどうか、誰に分かるだろうか)。
勝利を手にした資本主義は、かつては禁欲のもたらした
機械的な土台の上に安らいでいたものだったが、
今ではこの禁欲という支柱を必要としていない。
禁欲の跡を継いだのは晴れやかな啓蒙だったが、
啓蒙の薔薇色の雰囲気すら現在では薄れてしまったようである。
そして「職業の義務」という思想が、
かつての宗教的な信仰の内容の名残を示す幽霊として、
わたしたたちの生活のあちこちをさまよっている。
・将来、この鋼鉄の<檻>に住むのは誰なのか知る人はいない。
そしてこの巨大な発展が終わるときには、
まったく新しい預言者たちが登場するのか、
それとも昔ながらの思想と理想が力強く復活するのかを知る人もいない。
あるいはそのどちらでもなく、不自然きわまりない尊大さで飾った
機械化された化石のようなものになってしまうのだろうか。
最期の場合であれば、この文化の発展における「末人」たちにとっては、
次の言葉が心理になるだろう。
「精神のない専門家、魂のない享楽的な人間。この無にひとしい人は、
自分が人間性のかつてない最高の段階に到達したのだと、自惚れるだろう」。





 
 

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