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『新書で名著をモノにする「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」』
牧野雅彦 著 
2011年刊 光文社



長年電車のつり広告で読者をひきつけてきた出版社ならではの
発想でつけられた軽いタイトルであるが、内容はしっかりとした入門書。
逆に軽いタイトルにひかれてこの本を手にした人は
硬派な内容に頭を悩ますかもしれないが、
その落差こそこの本の企画の狙いなのかもしれない。
さて内容であるが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の本文を
丁寧に解説しながら同時にマルクス、ゾンバルト、ニーチェ、シュミットとの
比較も行われている。
ウェーバーとゾンバルトの微妙な違いを指摘したり、
プロテスタント諸派から『古代ユダヤ教』にも遡ったりと
コンパクトな本であるが読み応えのある内容になっている。
ストライクゾーンの四隅を切れのいい速球で攻めながら
真ん中に深く落ちるカーブが組み合わされているような構成である。




 



以下、本文より・・・

・資本主義の剰余価値生産のシステムは、
生産力の拡大そのものを搾取の論理のうちに組み込んでいる。
その結果として生産力の絶えざる拡大を通じて未来社会としての
共産主義の前提条件を必然的につくり出すことになる。
←資本論
・労働者の闘争による労働日の短縮は資本家をして
生産力の拡大と必要労働時間の短縮へと向かわせる
←マルクス
・マルクス的にいえば労働力商品の売買に基づく
―産業資本主義が成立するために必要な条件は何であったのか、という問題
・資本の源泉は中世の都市工業や商業ではなく
封建的な土地所有とその権力者の資産が移転されたもの
←ゾンバルト 『近代資本主義』
・わずかの資金を元手に成り上がった人々、
「上昇しつつある産業的中産階級」こそが「資本主義精神」の担い手 ←ウェーバー
・独占的大商人・大資本と中小の生産者との対抗という構図は
長期にわたってくり返し現れる現象 ←ウェーバー
・空想とは無縁の散文的な冷徹さと合理性を備えた精神が必要
←ゾンバルト
・「金に対する私欲のない愛情というものがあることを認めたサッカールは、
この男の姿が大きく立ち上がるのを見て、
宗教的な畏怖を感じたのだった」
←エミール・ゾラ『金』
・人はいったい何をよりどころに貨幣のための貨幣を求め続けるのでしょうか。
ウェーバーの「倫理」論文はこれに一つの解答を与えようとするものでした。
・ウェーバーは利潤追求の精神の直接の起源が
プロテスタンティズムにあることを論証したのではありません。
・資本主義を支えるような精神態度の起源は、
そうした利潤追求の動機とは別のところに求められるのではないか、
むしろ直接に利潤を目的としない精神、
利潤追求そのものを拒絶するような精神態度に由来するのではないか、
これが「資本主義の精神」を求めるウェーバーの問題設定だった
・営利とは対立するキリスト教、それも平信徒のところでは
カトリックよりも戒律が厳格に見えるプロテスタントの信仰と
資本主義的な営利がどうやって結びつくのか、
その逆説的な関連を解明するのがこの論文の課題
・フッガーのように飽くなき貨幣獲得・利潤追求に邁進した人物も、
いざ死に直面する際にはそれまでの罪を告白して、
それの相応しい金額を「良心の代価」として、
教会に寄進したり贖宥状を購入した
・誠実かつ良心的に、しかも虚栄や無駄を排して禁欲的に、
あたかもそれが神から与えられた「使命」であるかのごとく
ひたすら合理的な貨幣獲得を追求するという精神、
合理的な利潤追求や職務の遂行を義務とするような
「職業義務の思想」はどこからきたのかと、
これが問題だとウェーバーはいうのです。
・「使命としての職業」という観念は
ルターにはじまる宗教改革とそこで行われた聖書の
各国語への翻訳の過程で形成され定着していったのであり、
その意味において宗教改革の精神の所産であるとウェーバーはいうのです。
・アウグスティヌス以来くり返し現れる方向で、
そこで重視されるのは神の力強い働きに対する信仰と、
それによる罪の感情の苦悩からの解放であって、
人間の側の能動的な意志や信仰に基づく善行や功徳が
何らかの意味をもつということはありえない
・人間のために神が存在するのではなく、神のために人間が存在する。
こうした考え方からは、
信徒はひたすら神からの救いを受動的に求めるのではなく、
「神の栄光」のために神の僕となって働かねばならない、
という積極的な行動の可能性が出てくる
・第一に信ずることは義務であること、
疑いをもつことそのものが悪魔による誘惑であるからこれを退けること。
確信の不足は信仰の不足。恩寵の働きの不足だというのです。
第二にそうした迷いを打ち消して自己確信をつくり出すための方法として、
不断の労働、職業労働が勧められた
・信徒(とそして自分自身)のなかに宗教的な確信、
「自分が救われている」という「心の状態」をつくり出して組織する方法
・自分が神の「道具」として働いているという意識をつくり出すことが目標
・自分の救いは「神の栄光」のため、
神の救済計画の一部として働くことにある。
その意味では自分が救われているという状態も
自分自身の確信だけでは不十分である。
「神の道具」として働きは活動の成果、
具体的に目に見える結果によって計られねばならない。
・正確には「救い」そのものではなく「救いの確証」、
つまり救われているという証拠を
労働によって確認するかたちになっている。この点が重要であると。
・神の救済計画の一部として―首尾一貫したものとして
体系的に行われなければならない。
かくして自己の行為を絶えず審査して吟味し、
それに基づいて自己の労働を合理的に組織していくという
強力な動機づけが平信徒の重要な徴となる。
ここにルター派との決定的な相違がありました。
←カルヴァン派
・ピューリタンの場合には職業の変更も肯定されることになります。
すなわち、職業はそれが神に喜ばれるものかどうかを
道徳性、有用性ならびに「収益性」という基準から検証される。
・獲得された利得を享楽などによって消費することが禁じられれば、
それは生産的な投資に向けられることになる。
こうして禁欲を通じての資本形成、
つまり神から委託された財産の合理的な管理運営という
禁欲的プロテスタンティズムの
―第一次的には信仰の要請に基づく、
しかも直接的には財産や富というものに敵対的に見える―
要請から絶えざる利潤追求による新本の形成へという
逆説的な連関が成立することになります
・「純粋に宗教的な興奮の熱が峠を越えて、
神の国を求める痙攣が次第に醒めた職業道徳へと解消されてはじめて、
その宗教的な根が徐々に枯れていって
功利主義的な現世主義に取って代わられるようになった時なのである」
←ウェーバー
プロテスタント的な禁欲の結果として生まれた「資本主義の精神」、
神から与えられた職業への服従に由来する 倫理的な精神態度(エートス)には、
それに従わない者を道徳的に非難し、
自分たちの道徳的基準を強制しようとする、
そうした攻撃的で強圧的な態度がその内に
はらまれているとウェーバーはいうのです。
まさにそうした態度をもって、ピューリタンたちが推進したのが
貧困者を労働へと強制する「救貧法」の体制でした。
・世俗の乞食でさえ、慈善という善行の機会を所有者に与えるために、
一つの『身分』として認められ評価されていた。
←中世の倫理
・過酷なイギリスの救貧法を成立させたのも、このピューリタン的な禁欲であった
・プロテスタントにとって、貧困者に対する慈善は
怠惰と堕落を助長するもとして厳しく批判される
・「天から与えられた職業」として、
しかも自分が救われているという確証のための最有力の手段
・浮浪者や貧窮した者たちを「自らに意志による犯罪」
←救貧法
・禁欲的プロテスタンティズムが生み出した「資本主義の精神」は、
営利活動を「天職」とすると同時に、
職務に忠実で勤勉な労働者を企業家が搾取することを「合法化」することによって
近代資本主義の前提条件をつくりだしたのでした
・そこには道徳的な意味合いは含まれていない。
ところがこの劣悪・劣等という意味の「悪い」を、
道徳的な意味における「悪」(Bose)に転換したのがユダヤ人であった。
彼らは価値判断の土俵そのものを転換する。
・力のない者、弱い者、貧しい者、苦悩する者、
現世で「劣った」とされて貶められ辱められている
自分たちこそが「正しい」者であり、
強い者、富める者は奢れる者、「不正な」者、「悪しき」者である。
来るべき世界では弱者たるわれわれこそ
正しい者として救われるというかたちで、
つまり「良い」(優れている)と「悪い」(劣っている)の貴族的な価値判断から
「善」と「悪」という道徳的価値判断への転換の原動力は、
弱者の強者に対する「ルサンチマン」(怨恨)にあったとニーチェはいうのです。
・地上の世界で強者に太刀打ちできない弱者が
価値評価の土俵そのものを転換することによって強者となる。
神はわれわれに代わって強者、奢れる者に復讐して下さるだろう。
・弱者のルサンチマンを組織するのが司祭、司牧者であった。
・彼らはその技法を突き詰めて、
ついには民衆のルサンチマンを外部の誰かにではなく
自分自身に―自分がこうなったのは誰の所為でもなく自分自身の責任である
←「罪の感情」「良心の疚しさ」
・キリスト教的禁欲というのはそのようなルサンチマンの方向転換の完成であった。
・ルサンチマンの背後には「生の否定」が存在しています
・ユダヤ・キリスト教の神そのものの内に
生の否定というニヒリズムの根源がある
←ニーチェ
・禁欲的合理主義の経済以外の社会・政治への影響、禁欲合理主義とは
系譜の異なる人文主義的合理主義の影響との関係、哲学上、科学上の経験論、
技術の発展、その他精神文化財への影響、中世における世俗内的禁欲の萌芽から
禁欲的合理主義の歴史的生成、功利主義への解体の過程を改めて検討すること。
そのようにしてはじめて近代文化の形成に際して
禁欲的プロテスタンティズムが与えた影響力の程度とその意義は明らかになる
・コロンブスが出航した1492年8月3日に
スペインからのユダヤ人の追放がはじまり、
ヴァスコ・ダ・ガマがインド航路を発見した1497年に
ポルトガルが同様にユダヤ人を国外に追放
・ユダヤの独特の神概念の形成に決定的な影響を与えたのは、
民族の崩壊という政治的・歴史的事件とそこに出現した預言者の理念
・第二イザヤにあってはイスラエルの民の苦難は
まさに世界を救済するための犠牲であるというかたちで積極的に意味づけられている
・「エホバは悩む者の辛苦を軽しめて棄てたまわず、
これに聖顔をおおうことなくしてその叫ぶときにききたまえり」
(詩篇22-25)
・自分を「蛆虫」のような存在であるとする徹底した自己卑下の感情(蛆虫感)と
その昇華こそ、そうした認識の起源なのであって、
その意味において第二イザヤの「神の僕」の思想は、
ユダヤの民の怨嗟の感情そのものとは区別されなければならない。
・「正義」や「善」、あるいは「平等」の名の下に
偽装されて歪められた復讐心とその病理が社会全体を支配する
・ユダヤの民の苦難に対するルサンチマンに始まる
ユダヤ・キリスト教の司牧者・司祭による多数者(畜群)たちの生の組織化
・様々な「救い」、「救済材」の組織のための方法、
・ツァラトゥストラの説く「超人」の要点は
そうした「過去」とそれに囚われた意志を開放することにあります。
・「過去に存在したものたちを救済し、
いっさいの『そうであった』を『わたしはそう欲したのだ』に造り変えること
―これこそはじめて救済の名にあたいしよう」
←『ツァラトゥストラ』
・自分の罪を認めることは不完全性の徴にほかならない。
彼はそれを後悔するのではなく、
神の栄光のために克服されるべき対象として憎む。
そうした憎悪はまた神に見捨てられた他者に対して向けられることになる
←パリサイ的な攻撃性
・「教会や秘蹟(サクラメント)による救いの可能性を完全に否定したところに
カルヴィニズムとカトリックとの相違がある」
←ウェーバー
・プロテスタンティズムはユダヤの神観念を再興することによって、
そうした呪術の復活に終止符を打った
・シュミットの主張の基礎には二つの前提があります。
第一に「人間はこの世にひとりでいるわけではない」こと。
第二に、この世界は基本的に「善」(gut)であり、
この世における「悪」(Bose)は人間の罪の結果であること
←シュミット 教会が目に見える存在であらねばならない理由
・現世における人間は、神との関係では一人ではない
←シュミット 教会が目に見える存在であらねばならない理由
・他者との共同体を通じてのみ人は神に立ち返ることができる
・「キリストが真実の体をもつように、教会も一つの体をもたねばならない」
←シュミット 教会が目に見える存在であらねばならない理由
・「この世界が存続する限り目に見える教会も
存在するということを信ずることなしには
人は神が人間になるということを信じることはできない。」
←シュミット 教会が目に見える存在であらねばならない理由
・現世の生身の人間によって構成された「目に見える」教会の存在は、
いわば神の子イエスの復活と人間の救済を体現するものであって、
教会が目に見える形で存続していてはじめて、
ひとは「神が人間になる」、つまり神がその子イエスの犠牲によって
人間を救済するという奥義を信ずることができる
←シュミット 教会が目に見える存在であらねばならない理由
・もとよりカリスマ重視、つまり神から恩寵を与えられ、
神の声をきくという資質の重視はユダヤ教の預言者にはじまる伝統です
―神は信徒に「幻影」や夢ではなく「声」で語るというのは
ユダヤの神ヤハウエの特徴でした。
←ウェーバー『古代ユダヤ教』
・再洗礼派の一つとされる「クウェーカー」の名称は
神の言葉を受けて身体を震わせるところ(quake)に由来
・個人の資格と選抜に基づく「宗派」(ゼクテ)と、
一定の資格要件の信者を強制的に加入させる「教会」(キルヒェ)という
ウェーバーの宗教社会学の重要な概念
・原始キリスト教の場合にも週末論的期待が強いために、
現世での職業労働を積極的に位置づけるという方向にむかわなかった
・被造物の最たるものである政治権力に・国家に対しては
徹底的に距離を置くこと
・信仰の立場から軍役につくことを拒否する
「良心的兵役拒否」の思想がクウェーカーなどの再洗礼派の宗派から
・「倫理」論文を読むことは、いわば近代世界そのものを読む
―われわれの内にある近代理解を明らかにする―作業でもある




 
 

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