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『ナショナリズムは悪なのか』
萱野稔人 著 
2013年刊 NHK出版新書



国家とナショナリズムと近代に関するわかりやすい議論である。
ウェーバー、ゲルナー、アンダーソンから
ドゥルーズ=ガタリ、フーコーへと順を追って進められていく。
現実に即した世界の読み方である。 基本的にはいい内容だと思う。
だからこそ、あまり日本の人文思想界を批判する必要はないと思う。
批判に傾くと論旨が定まりにくくなる。
批判を入れるにしても議論の端々で軽く触れるくらいで十分だろう。
読者は批判を読みたいわけではないだろう。時間の無駄である。
それから引用が長くなり過ぎて、議論の方向が不安定になるような気もする。
編集に問題があるのかもしれない。



 



以下、本文より・・・

・反ナショナリズムという思想的フレームは
この点でひじょうに日本的なのだ
・勝者なき危機なのだ。
グローバル化の波に乗って国民国家を超えていけば
何かすばらしい世界がやってくるにちがいないといった多幸症的な見込みは、
時代によって完全に打ち砕かれたのである。
・ナショナリズムとは、第一義的には、
政治的な単位と民族的な単位とが一致しなければならないと主張する
一つの政治的な原理である。
・道徳とは心情や動機の正しさにこだわる
「心情倫理」にもとづくものであり、
政治とは、たとえ自分は清廉潔白でなくなっても
ものごとの結果に責任をもつという
「責任原理」にもとづくものだ。
両者では倫理の水準がまったく異なるのである。
←ウェーバー『職業としての政治』
・ケドゥリーのこの定義によれば、ナショナリズムは、
民族こそが固有の政府をもつ人間集団の単位であるべきこと
・国家の存在は「ナショナリズムの十分条件ではなくとも、
必要条件なのである」
・ナショナリズムは―国家の問題から切り離せないどころか―
国家論の一つのバリエーションなのである。
・「想像的な」共同体に対して「現実的な」共同体があるわけではない
・そのアイデンティティの構成はけっして自分ひとりだけではできないものだ。
それは、他社とのコミュニケーションに参加し、
他者からのまなざしをつうじて自己を了解することで
はじめて可能になる。
・「すべてのアイデンティティは視線である」
←バリバール
・「すべての二つの物件は、同じ度合いの類似性を持っている」
という定理を証明
←渡辺慧『認識とパタン』
・「日々顔付き合わせる原初的な村落より大きいすべての共同体は、
(そして本当はおそらく、そうした原初的村落ですら)想像されたのである。
共同体は、その真偽によってではなく、
それが想像されるスタイルによって区別される」
←アンダーソン『幻想の共同体』
・ネーションが他の共同体から区別されるのは、
それが限定された地域に対して主権をもつものとして
想像されるからである。
・ある地域をみずから統治する(ものとして想像された)
政治的共同体であるいう点がネーションを特徴づける
・世俗語が出版資本主義をつうじて人びとに共有されることで国民語は成立した
←アンダーソン
・出版語は時間とともに大きく変化していく言語を固定化し、
言語の標準形態をつくりだした
←アンダーソン
・ある人間の集合は、共通の言語をもつ人間集団だと
考えられるようになったからこそ、
主権をもつ共同体だと想像されるようになったのである。
共通の言語をもつことと主権をもつことがそこでむすびつく
・集団的な意志決定がおこなわれるときに必要となるのが言語である
・言語の共通性は人種的同質性を超えて成立しうる。
言語の共通性は複数の人種のあいだでも成立しうるという点では、
両者は対立することすらあるのだ。
・彼らが文化の同一性の根拠としてもちだす「伝統」も、
ネーションが成立した近代の地点から過去に遡行することで
後づけ的に創られた物語にすぎない。
ホプスボームはそれを「創られた伝統」と呼ぶ。
・「国家はネーションによって、ネーションのために運営されなくてはならない」
というのがナショナリズム基本的な原理となる。
その原理によって、国家は国民国家(ネーション・ステート)へと
歴史的に生成してきた。
国民国家とは、歴史のなかで国家がとりえた一つの形態である。
ナショナリズムはその国民国家の生成をうながし、
また世界へと広めた、想像上のエージェントにほかならない。
・国家とは、ある一定の領域の内部で
―この「領域」という点が特徴なのだが―
正当な物理的暴力行使の独占を
(実効的に)要求する人間共同体である
←ウェーバー『職業としての政治』
・国家が独占しようとするのはつねに
「合法的な物理的暴力行使」であるほかない
・国家権力とは、物理的暴力行使を背景にして
みずからの(法的)決定に人びとをしたがわせる、
その力のことである。
・法的決定が合法的な物理的暴力行使によって支えられ、
同時に、その物理的暴力行使の合法性が法的決定によって確立される、
という循環運動
・循環運動こそ、国家というものの存在をなりたたせているものにほかならない。
・主権という概念
―それは16世紀になって初めて用いられるようになった近代的概念である―
・「国家」の概念が完全な発達を遂げたのは全く近代のこと
ウェーバー『社会学の根本概念』
・主権が成立することによって、戦争をすることができるのは主権国家だけになった
・地域主義としてのパトリオティズムは、国家のもとにとどまり、
政治権力の行使をすべて国家に任せているからこそ
―つまり国家に依存しているからこそ―
暴力の問題から無縁でいられるのである
・国家を廃絶しようとする動きは国家を反復せざるをえない
・「国家なき社会」が実現されうるとするなら、
そこでは人文思想界の論者が嫌う強制的な権力はなくなるかもしれないが、
その代わり、内面の同質化への圧力はものすごく強くなる。
・戦争はもはや何らかの経済的利益を獲得するための「手段」ではない。
実際に戦闘があろうとなかろうと
―言い換えるなら平時と戦時とにかかわりなく―
戦争は資本主義を駆動させるモーターとなっているのである。
・資本主義が軍事と一体化した状況を
現代における「戦争機械」の出現としてとらえた
←ドゥルーズ=ガタリ『千のプラトー』
・ナショナリズムもまた、この原則と同じように、
ネーションのメンバーのあいだの「水平(平等)」よ「共(同)」にもとづいて、
民主的に決定がなされ、軍事力や警察力が組織されなくてはならないと主張する。
それこそ国民主権の原則にほかならない。
・人間集団を大きな、集権的に教育され、
文化的に同質な単位に組織化するナショナリズムというものは、
これらの可能性のひとつにすぎず、大変希なものである
・ナショナリズムの起源を探るためには、
その基層にもとづいて人間集団を文化的に同質的な単位へとまとめあげる、
もっと大きな社会編成の力を考えなくてはならない。
それが産業化だとゲルナーはいうのである。
・「最も重要なことは、支配層全体にとってであれ、
支配層内部の様々な階層にとってであれ、
文化的同質性よりも差異の方が重視されるということである。
ありとあらゆる仕方で様々な社会層が差異化されればされるほど、
社会層間の軋轢と曖昧さとは少なくなる」
←ゲルナー『民族とナショナリズム』
・産業社会とは、農耕社会に対して、
同質化のベクトルによって成り立つ社会のこと
・産業社会ではその流動性ゆえに
逆に共通の言語や標準化された基礎的技能が
人びとに必要とされるようになるのだ。
これが人間集団の同質化をうながすモーターとなるのである
・「教育基盤の整備は、あらゆる組織の中で最大のものである国家以外の
どんな組織にとっても、あまりの巨大でコストがかかりすぎる。
しかし同時に、国家だけがこれほど大きな負担を負うことができる一方で、
国家だけがまたかくも重要かつ決定的な機能を
制御するだけの力を備えているのである。」
←ゲルナー『民族とナショナリズム』
「同質化のプロセスは、国家が強力な軍隊をつくろうと
皆兵制を敷いたことによっても加速された。
・「近代社会は、この点で近代的な軍隊に似ているし、それ以上でさえある」
←ゲルナー『民族とナショナリズム』
・農村からの人口の流出や共通語の大がかりな普及徹底、
封建的な土地所有関係の機能不全といった現象がなければ実現しなかった
←国民形態
・ナショナリズムは表象の問題である以前に、社会編成の問題である
・「より一般的に言って、われわれが考慮すべきことは
近代国家、国民国家の「唯物論的」限定である。
すなわち、そこで労働と資本が自由に循環している生産者集団、
つまり資本の等質性と競争が
原則的に外部からの障害なしに実現されている生産者集団」
←ドゥルーズ=ガタリ『千のプラトー』
・国民国家がどのように成立したのかをとらえるには、
経済構造的な背景をまずは考えなくてはならない
・労働力が自由に移動するための脱身分的な住民の存在
・近代社会は、平等主義的であるが故に流動的なのではない。
流動的であるが故に平等主義的なのである。
さらに、近代社会は望むと望まざるとにかかわらず
流動的でなければならない。
その理由は、経済成長に対する凄まじく癒しがたい渇きを
満足させるために、そうあることが求められる点にある
←ゲルナー『民族とナショナリズム』
・資本が自由に投下されるための、障壁のない均質的な空間の存在
←資本主義発達のための条件
・均質化の措置が、支配領域を単一の領土へと再編成し、
領土内の人間たちを文化的に同質な単位へと組織することになった
・国民国家は、国家がみずからの内部を、
労働力が自由に移動し、資本が自由に投下されるような
社会空間につくりかえることで成立したのである
・国民国家は、資本主義が機能するためには不可欠な、
内在的な舞台を構成しているのだ。
・国民国家が成立したもっとも大きな要因の一つに、
ヨーロッパの国家が資本主義という経済システムを
領土内に統合することに成功したという「経済革命」がある
←アントニー・D・スミス『ネイションとエスニシティ』
・「資本主義にいかなる超人的偉業が可能であるにせよ、
死と言語は、資本主義に征服しえぬ二つの強力な敵だからである。
特定の言語は、死滅することもあれば、一掃されることもある。
しかし、人類の言語的統一はこれまでもできなかったし、これからもありえない」
←アンダーソン『想像の共同体』
・資本主義はたしかに国家を超えて拡がっていくが、しかし
「超えるとは、国家なしですませるという意味では決してない」
←ドゥルーズ=ガタリ『千のプラトー』
・資本主義と国民国家は対立しているという前提から、
ナショナリズム批判においては、
グローバル化が進めば国民国家は解体されるだろうということで、
資本主義や市場経済をやたらともちあげる議論もなされた。
結果は、格差や貧困など市場経済のマイナス面が社会のなかで拡がり、
逆に国内のナショナリズムが激化しただけだった。
この点で、日本のナショナリズム批判は
グローバル化時代のイデオロギーであるとさえいえる
・社会の産業化によって統治権力はどのように変容したのか
・「個々人に分ける」という働きは「規律・訓練」のもっとも基本的な特徴
・つねに見られているという事態は人びとを恒常的な被監視状態に置く
・「規律・訓練」とは人間の身体をめぐる一つの「技術」である
←フーコー
・身体刑は、「規律・訓練」が身体をめぐる一つの技術だったのと同様、
一つの技術なのであり、そこには権力上のロジックがしっかりと働いている
・「敵対者の身体に襲いかかりそれを支配する君主の物理的な力の優越性」
←フーコー『監獄の誕生』
・見世物的な身体刑がもちいられる理由がここにある。
それは、君主の決定権のもととなっている「物理的な力の優位」を
効果的に演出するための舞台装置なのだ
・身体刑にもとづく統治の実践は、
産業社会において人びとを資本主義的生産装置に組みこむには、
あまりに無駄が多く、実りが少なかった
・「伝統的で祭式的で暴力的で費用のかかる権力形態、
しかもやがて通用しなくなって、
服従強制の巧妙で計画的な一つの技術論全体によって
とって替わられたこの権力形態
←フーコー『監獄の誕生』
・人びとを従順にし、有用性を高め、それを生産装置に組み込んでいくことが、
「資本蓄積」になぞらえて「人々の蓄積」と表現されている
←フーコー
・暴力による威嚇ではない、身体の規律化という方法で、
法への従順さを獲得しようとするようになる。
これによって、国家をなりたたせている物理的暴力の存在そのものが
みえにくくなっていく
・暴力の希薄化という歴史的プロセス
・「処罰権は、君主による報復から社会の擁護へ位置を映された」
←フーコー『監獄の誕生』
・国家の暴力は、支配集団が社会みずからを防衛するためのものではなくなり、
社会そのものを防衛するものとなった
←フーコー
・主権とは合法的な暴力の独占にもとづいた最高の意思決定権のことである
・権力の脱人格化という効果
・「その権力の本源は、或る人格のなかには存せず、
身体・表面・光・視線などの慎重な配置のなかに、
そして個々人が掌握される関係をその内的機構が生み出す
そうした仕掛のなかに存している。
過剰権力が統治者において明示される場合の、
儀式や祭式や標識は無用となる。
不均斉と不均衡と差異を確実にもたらす
一つの仕組がこうして存在するわけで、
したがって誰が権力を行使するかは重大ではない。
偶然に採用された者でもかまわぬくらいの、
なんらかの個人がこの機械装置を働かすことができる」
←フーコー『監獄の誕生』
・一望監視施設は、監視塔に人がいてもいなくても、
その「内的機構」によって自動的に機能する監視システムなのである
・一望監視施設の特徴は権力を「没個人化」する
・統治権力が特定の人格とむすびついているかぎり、
国家が国民化することはない。
国家が国民全体のものとなるためには、
統治権力が誰のものでもない、形式的な法体系と機構に
もとづくものとならなくてはならないからだ
・これら二つのもの(国家の意思決定過程と軍隊の組織化)への
国民参加は表裏の関係にある
・古い主権的権力と「規律・訓練」との結合が
「国家的人種主義」としてのナチズムをもたらした
・国民国家がファシズムへと向かわないようにするためには、
国外市場の拡大を重視することで
国内経済の脆弱化を放置ないし加速させてしまう経済化政策を
進めないようにすることが必要となる。
つまり、国内経済を保全するというナショナルな経済政策が、
国民国家をファシズムに向かわせないために不可欠なのだ
・反ナショナリズムがナショナリズムを
逆にファナティック(狂信的)なものへと悪化させてしまうという限界
・暴力の後景化や権力の脱人格化など、
そもそも私たちが政治的なものに対して「善い・悪い」と
判断するさいの枠組み自体が、ナショナルとともに歴史的に生成されてきた。
その歴史的条件にとどまることなしに、
時代が突きつけてくるもろもろの課題と格闘することはできないのである。







 
 

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