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『民族とナショナリズム』
アーネスト・ゲルナー 著 加藤節 監訳 
2000年刊 岩波書店



ナショナリズムに関する極めて強力な分析であり、重要な古典である。
シンプルでしっかりした装丁もこの名著に相応しい。


 

近代以降の合理的な産業を基盤とする社会を支えるのは、
身分に縛られず変化する産業に柔軟に対応できる流動的な無数の個人である。
地域からも一族からも宗教からも引き離されたバラバラの個人を、
<国家>の下に一元的にまとめるのがナショナリズムである。
ナショナリズムは拠り所を失った個人にとっての
故郷であり家族であり魂である。
だからナショナリズムは何ものにも代え難く人々の心を揺さぶり熱狂させる。
そしてその基礎は国語を中心とした教育によって作られる。
日本の場合には、それに加えて、
<天皇を始祖とする民族としての日本人>という観念や、
それを具体化した国家神道という装置が人々に強く作用した。
ナショナリズムは民族の皮を被った産業主義であると言えるのかもしれない。


 



以下、本文より・・・

第1章 定義

・ナショナリズムとは、第一義的には、
政治的な単位と民族的な単位とが
一致しなければならないと主張する一つの政治的原理である
・端的に言って、ナショナリズムとは、
エスニックな境界線が政治的な境界線を
分断してはならないと要求する政治的正当性の理論であり、
なかんずく、ある所与の国家内部にあるエスニックな境界線によって
―これは原理を一般的に定義したときに、
正式にはすでに排除された偶発的なケースであるが―
権力を握るものが他の人々から切り離されてはならないと
要求するそれである。
・偏頗性、つまり自分自身を、あるいは自分の主張を
例外扱いする傾向は、人間のまさに中心的な弱点であり、
そこからあらゆる人間の弱さが生じるのかもしれない。
・そこから出てくるのは、
ある領域的な政治単位が民族的な同質性を持ちうるのは、
自民族以外の人々をすべて殺し、追放するか、
あるいは同化させたばあいのみであるということにほかならない。
・国家は、まさにあまりにも顕著に存在していたのだ。
反発を受けたのは、国家の境界および(もしくは)国家内での権力や
その他の利益の配分だったのである。
・民族を持つことは、人間性の固有の属性ではないにもかかわらず、
今ではそう思われるようになっている
・民族は人間が作るのであって、
民族とは人間の信念と忠誠心と連帯感とによって
作り出された人工物なのである


第2章 農耕社会における文化

・書き言葉は、勘定方と収税吏とともに歴史に登場してきた
・一般的に言って、彼らのイデオロギーは、
諸階級の不平等性と支配層の隔たりの程度とを控えめに見せるよりも、
むしろ誇張しようとする
・最も重要なことは、支配層全体にとってであれ、
支配層内部の様々な階層にとってであれ、
文化的同質性よりも差異の方が重視されるということである。
・農民の小共同体は、一般的に内向きの生活を送るものであり、
政治的指令によってではないとしても
経済的必要性によって地域性に縛られている
・特権的集団を識別させ差異化させる独占的な特性を強調し、
先鋭にし、際立たせることは、
農耕・識字社会の上層階層にとって明らかに都合のよいことである。
祭儀の言語は俗語とはまるで異なるものとなる傾向が大変強い。
まるで読み書き能力〔の有無〕だけでは、
聖職者と平信徒との間に十分な障壁を築きえないかのように思わせるほどである。
・文化的裂け目の確立は不平等性を強化しさえする
・不平等性は、不可避性、永続性、
自然性のオーラを付与されることによって、心地よいものになる。
・マルクス主義が人民に期待させようとしたのとは違って、
社会内部における水平的な差別化に耽溺しているのは前産業社会の方であり、
それに対して、産業社会は階級間の境界よりも民族間の境界を強化するのである。
・古代ギリシアにおいては、彼らギリシア人なりに愛国的であったにもかかわらず、
「一つの帝国、一つの民族、一人の総統」といったスローガンは存在しなかった
・この広まりやすい危険に対抗するために採用される戦略は、
細部においては異なっていても、一般的には去勢化として特徴づけられる。
←特定の血縁集団との結びつきによる政権の獲得
・知識階層とマムルークの地位が一般化した時代においては、
文化と政治体との関係は根本的に変化する。
ある高文化が社会全体に広まり、社会を定義づけ、
政治体によって支えられなければならなくなる。
それこそがナショナリズムの秘密なのである。


第3章 産業社会

・中央集権的な官僚制が、合理的な実業家の場合と同じくらい
新しい<精神>を例証しているとすれば、
当然われわれは資本主義それ自体よりも産業主義に関心を抱くことになるのである。
・新しい精神についてのウェーバーの説明においても、
そして私が思うに他のどんな説得的な説明においても、
合理性の観念が中心的かつ重要でなければならない。
・規則正しさと能率性とこそが、
合理性の精神全体の中で官僚制と企業家とを形成する要素であると
みなすことができよう。
・まさにそれは事実の共通の尺度であり、
事物の一般的特徴づけのためのいわば概念の普遍的通貨であった。
←規則正しさと効率性
・計量的な事実世界は、大衆社会における匿名的で均等の人間集合体に対応する。
・認識上の成長と経済成長(この二つのものは当然互いに関連している)、
この両者に依存するようになった社会のこのヴィジョンが、
ここでのわれわれの問題である。
なぜなら、われわれは、もともと永久に成長し進歩する社会の
諸結果に興味をもっているからである。
しかし、そのような永続的な成長の諸結果は、
その条件となった観念と驚くほど類似しているのである。
・ナショナリズムは、そのルーツを、
複雑で、つねに累積的に変化する特定の種類の分業に持っているのである。
・この新しい種類の社会的流動性の直接的な結果は、
ある種の平等主義である。
近代社会は、平等主義であるが故に流動的なのではない。
流動的であるが故に平等主義なのである。
さらに、近代社会は望むと望まざるとにかかわらず流動的でなければならない。
その理由は、経済成長に対する凄まじく癒しがたい渇きを満足させるために、
そうであることが求められる点にある。
・不平等が安定的で、慣習によって神聖化されていれば、
人々はひどい不平等も許すことができる。
しかし、熱に浮かされたように流動的な社会においては、
慣習には何ものをも神聖化するひまがない。
転がる石にオーラはつかない。
そして流動する人口は、社会成層にいかなるオーラも
付着することを許さない。
・この幻想は不可欠であり、しかもそれは、
少なくともいくぶんかの現実性を伴っていなければ存続しえない。
・産業社会は、たいていの基準からみて、最高度に専門化された社会であろう。
しかし、その教育制度は、かつて存在した中でも、
明らかに最も専門化の度合いが少なく、最も普遍的に標準化されている。
・きわめて高度な訓練を受けた比較的少数の特殊兵を除いて、
積雪な教育を受けた新兵はすべて、
あまり時間の無駄なく一つの専門からまた別の専門への
再訓練されることが前提され、また期待されている。
・分節的社会という人類学的概念は、この概念を正確に含んでいる。
すなわち、「分節」とは、それが一部をなすところの
より大きな社会の小さな変形にしかすぎず、
より大きな単位で行われることをすべてより小さな規模で行いうるのである。
・近代社会においては、いかなる下位共同体も、
独立の教育制度を維持できるだけの規模に達することはなく、
もはや自己再生産できない。
完全に社会化された個人の再生産そのものは、
分業の一部となり、もはや下位共同体が自分自身のために行うことはない。
・人類史上初めて、明示的でかなり厳密なコミュニケーションが、
一般に広く用いられ、重要になる。
・「精巧な記号体系」←バジル・バーンスタイン
・正当に雇用され、完全で有効な精神的市民権を享受したい考える場合に
この社会の構成員に要求される規格化された媒体、
概念的共通通貨として用いられる読み書き能力、技術能力の水準は、
親族や地域単位といった程度のものではまったく供給できないほど高度である。
・社会の下位単位がもはや自己を再生産する能力を持たず、
中央集権化された族外教育制度が必須の規範となり、
そのような教育が(完全に取って代わるわけではないとしても)
地域ごとの文化的適応を補完するという事実は、
近代世界の政治社会学にとって何にもまして重要である。
・正当な教育の独占は、正当な暴力の独占よりも重要で集権的となる。
・人間集団を大きな、集権的に教育され、
文化的に同質な単位に組織化するナショナリズム
・この運動はイデオロギー的な錯乱の結果でも、情動的な過剰の結果でもない。
ナショナリズム運動一般に参加する者は
ほとんど例外なく自分たちがしていることが何であるのか理解できずにいるが、
それにもかかわらず、この運動は、政治と文化との関係に
不可避的に深く適応していることを外に向かって表明している
・普遍的な読み書き能力と高水準の計算・技術能力および全般的洗練が、
それが機能するための必須条件である。
その成員は流動的であり、かつそうでなければならず、
ある活動から次の活動へ移る用意を常にしておかなければならない。
そして、次の新しい活動と職業の手引書や仕様書とについていけるような
全般的訓練を積んでいなければならない。
仕事を進めていく上で、彼らは数多くの他人と
絶えずコミュニケーションを図らなければならず、
しかも、その他人との間には事前の面識がないことも多いため
コミュニケーションは明示的でなければならず、
コンテクストに依存することはない。 ・人間の教育こそが最も高価な投資であり、
事実上その人にアイデンティティを与えるものとなる
・近代人の忠誠心は、彼が何と言おうと、
君主や祖国あるいは信仰ではなく、文化に向けられる。
該当社会にとって、文化とは成員みんながその中で呼吸し、
話し、生産できる文化でなければならない。
つまり、それは同一の文化でなければならない。
さらに、それはまた、(読み書き能力を基礎とし、訓練によって支えられた)
大規模な高文化でなければならず、
もはや多様で地域に拘束され、読み書き能力に基礎を置くこともない
小文化や小伝統ではありえない。
・当該社会にとって、文化とは成員みんながその中で呼吸し、
話し、生産できる文化でなければならない。
つまり、それは同一の文化でなければならない。
・国家はこの最重要の産業、すなわち生育可能で有用な
人間の製造業における品質管理を占有する
・今やなぜ国家と社会とが結合しなければならないのか。


第4章 ナショナリズムの時代への移行

・人類は、もはや後戻りできない形で産業社会に、
その生産体系が累積的な科学とテクノロジーとに基づいている社会に縛られている。
この社会だけが、地球上の人口を、
そして将来予想される人口を扶養することができる。
・客観的で不可避的な要請によって押しつけられる同質性が
ナショナリズムという形を取って表面に現れるのである
・近代の条件の下で、より抽象的な信仰たりうるイスラームの能力が、
平等の信徒からなる匿名の共同体を支配し、
再び自己主張するようになったのである。
・世界征服を進め完成したのは、
いよいよ工業と貿易とに専心するようになった諸国民であった。
それは軍事機構でも、たまたま結集した有象無象の部族民でもなかった。
・「民族」はまさに事物の本性のように存在しており、
ナショナリズムの「覚醒家」によって慨嘆すべきまどろみから
「目を覚まされる」←ナショナリストの好む表現
・ナショナリズムは実際には社会組織の新しい形態の結果であり、
それは、深く内在化され、教育に依存し、
国家の保護を受ける高文化に基礎を置いている。
・われわれは神話を受け入れてはならない。
民族は事物の本性に刻み込まれているものでもないし、
自然の種という教養の政治版を構成しているものでもない。
・産業社会においては、これらすべてが変わる。
高文化はまったく新たな意味で支配的となる。
高文化にまとわりついていた古い教義はたいていその権威を失うが、
しかし高文化が保有していたコミュニケーションの読み書き能力に基づく
慣用語とスタイルとは、はるかに効果的に権威的で規範的となり、
なかんずく社会において広く浸透し普遍的なものとなるに至る。


第5章 民族とは何か

真に大きな、しかし正当なパラドックスとは次のことである。
すなわち、民族はナショナリズムの時代によってのみ定義されるものであって、
あるいは期待されているかもしれない他の仕方では定義できないということである。
・一般的な社会条件が、エリートの少数派にだけではなく
全人口に普及する標準化され同質的で中央集権的に支えられた高文化を促進する時、
教育を通じて容認された輪郭のはっきりした統一的文化が、
人々が進んで、時には熱烈に一体化したがる
ほとんど唯一の単位を構成するという状況が生まれるのである。
・民族を生み出すのはナショナリズムであって、他の仕方を通じてではない。
・それは匿名的で非人格的な社会の確立であり、
この社会は、極小集団がそれぞれ土地ごとに特有な形で再生産する
民衆文化によって支えられた地域の諸集団からなるかつての複雑な構造に代わって、
もっぱら上記の共有文化によって結合されている
相互に互換可能で原子化された諸個人から成り立っている。
・近代的で最新式の快進撃を続ける高文化は、
それが不朽不滅で、強固で、再確立しうるものと
てっきり信じ込んでいる民俗文化から拝借した
(そして、その過程で様式化した)歌や踊りを通して、自らを崇拝するのである。


第6章 産業社会における社会的エントロピーと平等
・農耕社会から産業社会への移行は、一種のエントロピー効果を、
すなわち決まった様式から意図的な無定形性への転換を伴う。
・この全体的かつ究極的な政治共同体は、
(過去においては稀であったが)
国家と文化的境界との双方と結びつけられることによって、
まったく新たな、かつきわめて大きな重要性を獲得する。
・この社会の中では下位共同体が部分的に侵食され、
それらの精神的権威がひどく弱められるにもかかわらず、
しかし、人々はあらゆる仕方で相違を持ち続ける。
・多くの場合、産業世界で、いわば文化=宗教から
文化=国家への移行を可能にする新しい集団的アイデンティティの基礎となる、
文字によって強化され、専門家集団によって支えられた高級宗教
・かつては聖廟が部族と彼らの境界とを定義した。
これに対して聖典主義は民族を定義できるし、実際そうした。
・この哲学の本質は、世界についてのあらゆる実体的な確信を非絶対化し、
あらゆる主張を、いかなる信仰体系による拘束や防壁をも越えて
設けられた基準(「経験」、「理性の光」)による
中立的な吟味に例外なく従わせることにあった。
←デカルト・経験主義
・真理の井戸が公共の中立的管轄に渡るのを許すのである。
・これらの高文化が、知識階層にのみ属する慣用句である代わりに
領域民族全体のそれとなるために支払う代償は、
それらが世俗化されるということである。
・まず宗教改革が知識階層を普遍化し俗語と祈祷用言語とを統一し、
次に啓蒙主義が、今や普遍化された知識階層と全国的規模にまで広まった慣用句
―どちらももはや教義や階級に結びついていない―
とを世俗化したのである。
・一神教の中で最もプロテスタント的な宗教であるイスラームは、
常に宗教改革好きであった
・教義が優雅かつ単純、簡素で、厳格に唯一神教的←イスラーム
・たいていの場合、教育によって伝えられる新しいエスニシティのもつ誘引力は、
外在的および内在的要因の両方から、すなわち新たな雇用機会の魅力と、
保護を提供していた古い血族集団の溶解から生じる反作用とから生まれる
・競合する潜在的ナショナリズムは、そうした言葉を使って
「私は愛国者であり、あなたはナショナリストであり、彼は部族主義者である」
といったように、互いに争う。


第7章 ナショナリズムの類型

・インドの場合には、余剰を獲得した人々は、
巻き上げを緩和したり、それを避けるために、
彼らの金をすべて寺院に納める傾向にあった
・市場関係、新しい軍事・生産技術、植民地征服といったものの
拡散といった形での産業社会の秩序の到来とともに、
かつての安定性は永遠に失われてしまう
・前産業社会では、官僚的機能を最もよく果たすのは、
宦官、僧侶、奴隷、そして外国人である
・誰であれ、物理的あるいは社会的に去勢されなくとも、
官僚としてそこそこやっていくことができるようになったのは、
われわれの近代社会が出現し、すべての人が奴隷であり、
かつ書記でもあるようになってからのことである。
・経済的な才能に長けた集団のあるものは、
その背後に、拡散、都市化、マイノリティの地位という長い伝統を負っている。
これは明確に、ユダヤ人、ギリシア人、アルメニア人、パールーシーに
当てはまるケースである。
・国家はマイノリティから経済的独占権を奪うことを利益と考え、
また、そのマイノリティが目につき、また富を持つ存在であるために、
彼らから財産を奪い、迫害することによって、
より多くの一般の人がもっている不満を大幅に軽減させることができるのである。


第8章 ナショナリズムの将来

・農耕時代の閉鎖的な極小共同体ほとんどにおいては、
文化の限界が世界の限界であり、
文化それ自体はしばしば気づかれることも目に見えることもない。
誰も文化を理想的な政治的境界とは考えなかったのである。
・たいていの仕事がコミュニケーションと関係を持つこと、
そして物よりもむしろ意味を操作すること、
これらのことによって強められる恒常的な職業の変化は、
少なくとも一定の社会的平等あるいは社会的格差の縮減を、
そして標準化され実質的に共有されたコミュニケーション媒体への要求を促進する


第9章 ナショナリズムとイデオロギー

・一般的に言って、ナショナリズムのイデオロギーは、
広汎な虚偽意識に侵されている。
ナショナリズムの神話は現実を逆さにしてしまう。
つまり、実際には高文化を創造しようとしているにもかかわらず、
民俗文化を守ると主張し、
実際には匿名性の高い大衆文化を築き上げるのを助けているにもかかわらず、
旧い民族社会を保護すると主張するのである
・神と印刷とが安価で、読み書き能力が広まり、
コミュニケーションが容易になった時代には、
無数のイデオロギーが生み出され、
われわれの支持を得ようと互いに競争する。
・何がメディアに供給されたかは、まったく重要ではない。
重要なのはメディアそれ自体なのである。
つまり、問題は、その浸透性や、抽象的で集権化され、
標準化された一から多へのコミュニケーションの重要性であり、
伝達される個々のメッセージの中に、
何が具体的に含まれるかといったことに関係なく、
そうしたコミュニケーションそのものが
自動的にナショナリズムの中心的な観念を生み出すのである。
・その中心的なメッセージとは、
伝達と言語のスタイルとが重要であるということ、
それを理解できる者、あるいはそういった理解力を獲得できる者のみが、
一つの道徳的で経済的な共同体に加わることができ、
そしてできない者はそれから排除されるということなのである。
・気紛れに動じることのない最終的で絶対的な自己の権威は、退行を終結させる。
それは、カントの内に存在する論理学者とモラリストとの双方にとって
耐えがたいほど不快な行為を、
つまり、どれほど高尚なものであれ、
何らかの外の権威を受け入れるという恥辱を回避させる。
それは自己決定のアンチテーゼ、
カント自信の言葉によれば他律性という恥辱なのである。
・カントにとって真の主権者は個々人の人間性であり
―主権をそこに移行させたことが、彼のコペルニクス的転回を形作った―
それはすべての人間に普遍的で同一のものなのである。


第10章 結論

・本書で主張されていることは、ナショナリズムが
きわめて特殊な種類の愛国主義であり、
実際のところ近代世界でしか優勢とならない
特定の社会条件の下でのみ普及し支配的となる愛国主義だということである。
ナショナリズムは、いくつかの非常に重要な特徴によって
識別される種類の愛国主義である。
その特徴とは、この種の愛国主義、
すなわちナショナリズムが忠誠心を捧げる単位は、
文化的に同質的で、(読み書き能力を基礎とする)高文化であろう
と努力する文化に基礎づけられていること、
この単位は読み書き能力に基礎を置く文化を存続可能にする教育システムを
維持しようとする希望に耐えるに十分なほどの大きな単位であること、
この単位はその中に強固な下位集団をほとんどもたないこと、
この単位の住民は匿名的、流動的、能動的であり、
直接的に結びつけられていること、
すなわち、各人は、入れ子式に重ねられた下位集団への帰属によってではなく、
彼の文化様式によって直接この単位に所属しているということである。
要するに同質性、読み書き能力、匿名性が鍵となる特性なのである。
・その経済は、個人間の流動性とコミュニケーションとに依存している。
・産業社会は、新たな、かつてないほどのレヴェルにまで分業を推し進めたが、
より重要なことは、産業社会が新しい種類の分業を生み出したということである。
すなわち、それは、分業に参加している人々に対して、
世代間においては言うまでもなく個人の一生涯の間でも、
一つの職業から別のそれに移動できるように要求する種類の分業である。
・信仰や教会よりも一つの倫理および国家官僚制とむすびついた中国の高文化は、
おそらく例外的なものであった
・ナショナリズムを出現させたプロテスタンティズムのような宗教
・近代世界はある人々が自分の職業をきわめて真面目に
受け取ったために生み出されたのに、
それは職業への厳格な帰属のない世界を作り出してしまった



 
 

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