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『国家神道と日本人』
島薗進 著 
2010年刊 岩波新書



近代日本の政府が国民を統治するためのシステムとして磨き上げた天皇祭祀。
神社組織を横糸とし、学校教育を縦糸として
地域と個人を徹底的に組織化して
人々を一枚の強靭な<国民>として編み上げた。
それは素晴らしく緻密で、極めて成功した統治手法であったが、
逆にそれがあまりに強靭過ぎて政府は自縄自縛に陥ってしまった。
それが先の大戦までの経緯である。
戦後、その手法は放棄されたが、
編まれた<国民>が解かれることはなかった。
統治としての宗教が無くなって日本人は「無宗教」になったが、
<国民>の宗教的な起源がなくなったわけではない。
目の前や頭の上から見えなくなっただけで、
<国民>の足下を支えているのは今でも古代から続く祭祀である。
戦後70年以上が経っても、足下の霊脈が枯れる気配はない。
・・・天皇制を廃止するという議論がなされることはない。
・・・それは無条件に信頼されているという意味で<宗教>である。
逆に時が経てば経つほど、変えられない歴史として
国民のアイデンティティを支えるものとしてその力は増していく。
これは「決して緩まないネジ」と同じ 日本人によるすごい発明品のひとつである。


 



以下、本文より・・・

はじめに

・国家神道は神社とともに、いやそれ以上に学校で広められた。
紀元節に限らず戦前の祝祭日は、
おおかた皇居で重要な天皇の神事が行われる日だった。
・七世紀の終わりから八世紀の初め頃、
天武天皇、持統天皇らの時代に
唐の国家体制にならって国家儀礼や法体系が整備され、
宮廷神事の基礎は確立した。


第一章 国家神道はどのような位置にあったのか?
―宗教地形―

・「私は、戦をするのが悪いといふことを一応は言ふけれど、
さういう自分がやはり凡夫である」
←暁烏敏
・「国家神道」は「宗教」ではない国家統治の儀礼(祭)や
道徳の教え(教)の領域の事柄であり、
その限りで「祭政一致」や「祭政教一致」はなりたつべきものとされていた。
・1872年に設置された教部省は、神道、仏教、民族宗教の
すべての宗教集団を管轄する宮庁で、
「大教宣布」のための機関と位置づけられた。
・第一条 敬神愛国ノ旨ヲ体スベキ事
第二条 天理人道ヲ明ニスベキ事
第三条 皇上ヲ奉戴シ朝旨ヲ遵守セシムベキ事
←「大教」の大枠を示した「三条の教則」
・官幣社や国幣社では神葬祭は禁じられた
・神社界に対する国家の経済的な支えも、
1906年から官国幣社に対する国庫供信金が給されるようになる
・神社界が宗教側(宗教神道、教派神道)と
祭祀側(神社神道)に分岐していく1882年頃
・国家「祭祀」機関である神社は、戦死者の祭祀に関わることにより、
また、「天皇の祭」との結合を強めることにより、
国民生活への影響力を強めていった。
・天皇が親祭する皇室祭祀、
つまり天皇が自ら祭司の役割を担う祭祀は13であるが、
そのうち古代以来のものは、
毎年の稲の新穀を天皇が天神地祇とともに食する新嘗祭のみである。
・まったく新しい祭祀として際立つものは、元始祭と紀元節祭である。
・もっとも重要な相違は伝統的な皇室祭祀は
少数の宮廷関係者や官職者が関わるにとどまり、
多くの人々が参与するものではなかったのに対し、
明治維新後の祭祀は祝祭日に行われ、
大多数の国民の日常生活に関わるものとなったことだ。
・国民の一年の暦の意識が、皇室祭祀を基軸として展開することになった
・この時期の日本のナショナリズムは、神道祭祀を行い、
皇祖皇霊の権威に基づいて道徳を教える天皇に対して、
国民が畏敬の念と愛着の心情を分け持つことによって
強い統合力を発揮した。
・大日本国憲法が天皇の宗教的権威を前提としたものであることは、
条文の内容以上に、その発布形式に明瞭に示されていた。
この憲法は天皇が定めた欽定憲法であり、
発布に際しては宮中での天照大神や歴代の天皇(皇祖皇宗)と
神々を祀る神殿の前で奉告祭が行われた。
全国の神社でも同様の奉告祭が行われた。
また、「皇祖皇宗の神霊」に向けて「告文」が、
また国民に向けては「勅語」が付されていた。
・内側に示される道徳的教えの部分は宗教性が薄いが、
外側の枠の部分を「国体」論や天照大神信仰、
皇祖皇宗への畏敬の念、そして濃厚な天皇崇拝が囲んでいるのだ。
・1890年頃に確立し、第二次世界大戦終了まで続いていく、
日本の宗教や精神の二重構造
・「公」の国家神道と「私」の諸宗教が重なりあうという
二重構造的な宗教地形(religious landscape)が形成された


第二章 国家神道はどのように捉えられてきたか?
―用語法―

・「神社神道」と呼べるような統一宗教組織は、
明治維新以前は存在しなかった
皇室祭祀と連携して組織化されることにより、
初めて神社神道とよびうる組織が形成された。
・神社神道は明治維新後、国家機関(国家祭祀の機関)として
制度的に位置づけられ、皇室祭祀を核に構成されていき、
次第に国家神道の重要な担い手となっていった。
・それまで日本の国家伝統の独自性について説かれてきたことの多くが
国体の語に集約して論じられるようになり、
国体論・国体思想とよばれるような複合体を形成し、
そこにさまざまな意味が込められるようになる。
←尾崎正英「国体論」
・1921年から39年に至る時期の第二段階では、
それに「皇室はいわば本家で臣民は分家のようなものである、
天皇は親で臣民は子のようなものであるといった
「家族国家」論がつけ加わってくる」。
さらに1939年以後の第三段階になると、
天皇「現人神」論と「八紘一宇」論が付けくわえられたという。
・戦後から現代に至る日本の宗教制度は、
この文書と1946年に公布された日本国憲法によってその基礎をすえられた
←「神道指令」
・近代になって広まった西洋のreligionの概念がもつ一つの特徴として、
それが宗教集団・宗教組織を表す語になった
・近代日本の天皇崇敬を基軸とした社会統合システムにおいては、
身体的実践や儀礼行動がきわめて大きな役割を果たした。
・祭政一致とか祭政教一致とか皇道とよばれたもの
・「国体の教義」と「皇室祭祀」や「神社神道」を結びつけたのは、
教育勅語や祝祭日システムやメディアだった。
そこでは皇室祭祀や神社神道と国体論を結びつけ
天皇崇敬を鼓吹する行為が、
長期にわたり日常的に行われていたのだった。


第三章 国家神道はどのように生み出されたか?
―幕末維新期―

・「万世一系」の天皇の統治は、この二つの聖所を基盤としてこそなされる
←伊勢神宮と宮中三殿
・明治維新後、神宮は国家の管理下に入り、天皇・皇室との関係を強め、
皇室祭祀と一体の荘厳な国家神道の聖所へと変貌していくことになった。
・明治末期に20万と数えられた全国の神社
・1894年、内務省は訓令を発し、「大祭」と「公式の祭」に分けて、
伊勢神宮と官国幣社の共通の祭祀をしていしている
・篤胤の国学が豪農層を担い手とし、「草莽」の人々、
つまりは草の根の連帯を念頭に置いたものだったのに対して、
津和野派の政治理念は集権的な政権の中枢で、
高級官僚として実行すべき政策を念頭に置いたものだった。
・巨視的に見れば、元田と明治天皇を動かしていった力は、
明治維新の枠組みそのものが準備したものである。
すなわち皇道論や「祭政教一致」の建前が掲げられ、
それに従って制度構築が進められ教育勅語に結晶したのだ。


第四章 教育勅語はどのように広められたか?
―教育勅語以後―

・第一期(1868年−1890年頃)を国家神道の「形成期」とよぶ
・第二期(1890年頃−1910年頃)を「確立期」
・第三期(1910年頃−1931年)を「浸透期」
・第四期(1931年−1945年)を「ファシズム期」
・人々の心の奥深い部分を揺り動かす力をもっているという点で、
靖国神社は国家神道の中で特別の重みをもつ
・1920年頃に地域の若手神職によって立ち上げられたこうした運動は、
30年代の草の根の日本精神興隆運動に受け継がれていった。
・社会のさまざまな局面で民衆の下からの参加が押し進められるにつれて、
むしろ第二期確立期に整えられた
国家神道の普及の装置が力を発揮するようになる。
その結果、第四期ファシズム期には皇道や祭政一致の理念を掲げて
既存の体制を覆そうとする下からの運動を、
押しとどめるのが困難な状況に至ることになる。
・「憲法解釈に即していうと、「顕教」は天皇=絶対君主説となり、
「密教」が立憲君主制立場であり天皇機関説となる。
「小・中学および軍隊では、「たてまえ」としての天皇が
徹底的に教え込まれ、大学および高等文官試験にいたって、
「申しあわせ」としての天皇がはじめて明らかにされ、
「たてまえ」で教育された国民大衆が、
「申しあわせ」に熟達した帝国大学卒業生たる官僚に
指導されるシステムがあみ出された」
←『現代日本の思想』久野・鶴見
・啓蒙主義的な世俗主義的教育が進む近代だが、
にもかかわらず民衆の宗教性は社会が向かう方向性を
左右する力をもつことが少なくない


第五章 国家神道は解体したのか?
―戦後―

・明治初期以来の近代国家形成のビジョンとして
祭政一致、祭政教一致という考え方があり戦前の国家神道を導いたこと、
神社神道は国家神道の一部にすぎず
皇室祭祀がきわめて大きな役割を果たしたこと、
この両者は一体であるべきものと考えられてきたこと
・日本人は国家神道の思想や心情の影響をふだんに受ける位置に
今もいるのであり、そのことに自覚的に対処するのがよい
・第二次大戦後に日常的季節的な皇室祭祀が
ほぼそのまま継続されたことにより、
神社界や皇室崇敬の篤い人々にとっては
国家神道の聖なる時間と空間の恒常的実在感が保持された
・天皇が旅行をするときに剣璽(けんじ)をともに移動させる
「剣璽御動座」は1946年にいったん廃止されたが、
74年から再び神宮参拝などの檻に行われるようになっている
・明治以降、根拠を確かめるゆとりもなく定められたものが多い
900近くにも及ぶ陵墓
・1970年代に入り、国事行為でもなく私的行為でもない
「象徴としての公的行為」という範疇が考えられるようになり、
神道的な公的行為の範囲を拡充して許容する論拠とされるようになっている。
・「それはたんに「文化」の事柄ではなく、
「大きな意味での政治そのものであり、
まさに国家を指導する営み(まつりごと)と
いわなければならない」
「古代につながる天皇の究極の存在理由」
←中西輝政
・『象徴天皇という物語』赤坂憲雄
・祭祀を通して大きな政治的機能が果たされる
・天皇親政ではなく天皇親祭が政治的機能をもつこと
・政治的には何も行わない天皇が中心に位置するということから、
日本の社会は「空虚な中心」によって統合されているという議論が人気
・「空虚な中心」と見えたものは実は空虚ではない。
明治維新から1945年まで、それはある意味で「主軸となる中心」だった




 
 

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