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『日本近代史』
坂野潤治 著 
2012年刊 ちくま新書



明治維新から80年間の近代史を記した著者は、
日中戦争の始まるところで筆を置きこう述べる。
「異議を唱える者が絶えはてた
「崩壊の時代」を描く能力は、筆者にはない」
逆に言えばそこまでは歴史として描ける対立や対話が
存在したということである。
そして日本が国力のすべてを動員して戦い続けていたにもかかわらず、
「崩壊の時代」には構造として描ける歴史がないのである。
日本は「歴史」を形作る力さえ燃やし尽くしていったかのようである。
そこは崩壊をじっと見つめ続けるだけの<歴史の果て>であったのだろう。
その時代を原体験として知る筆者は、
その時代について描かないことによって、
そこにあった全面的で圧倒的な空虚を
それまでの80年間と対比して示しているかのようである。


 



以下、本文より・・・

第1章 改革 1857-1863


1「尊王攘夷」と「佐幕開国」

・欧米列強の軍事的圧力は、日本古来の伝統(「尊王」)と
250年余にわたるもう一つの伝統(「攘夷」)とを結びつけた。
この二つの「伝統」が「水戸学:や吉田松陰などにより、
「尊王攘夷」という一つの「国是」に合体した時、
日本に強固な原理主義が登場したのである。
・「尊王」か「佐幕」がという国内政治体制の根本的な対立
・天皇の許可なしに「開国」を断行したことが、
「尊王」と「攘夷」の結びつきを強くし、
他方、有力大名の意向を無視したことが
「公武合体」論を台頭させた。
・「開国」―「攘夷」の対立が棚上げされた時には、
有力大名の声を重視せよという「公武合体」の要求は、
大名だけでなく、有力家臣の意向も尊重せよという
「公議輿論」の要求に発展してきた。
こうして、「尊王倒幕」と「公議輿論」が有力大名と
その藩士たちの共通のスローガンになった時、
「悪戦苦闘」の四段階は終わりを告げ、
事態は明治維新に向けて急展開していく。
・両派は同じ目標に向かって進んでいると誤解することなしには、
革命は成就しないのである。
・「変革の相場」を理解しないで、
文字の上だけで「尊王倒幕」と「公武合体」を論じてきたことが、
明治維新に先立つ10年余の歴史像を歪めてきた最大の原因
・幕末期を通じての西郷のキー・ワードの一つは、「合従連衡」であった。
・<古代にはアジア雄飛につとめた朝廷が、僅々300年の幕府の鎖国政策を
あたかも自らの「祖法」のごとく主張するのは、本末転倒も甚だしい>
←長井雅楽(うた) 長州藩


第2章 革命 1863-1871

・半官半民の「諸隊」(奇兵隊、遊撃隊、整武隊、振武隊、健武隊など)
→徴兵制
・1870(明治3)年3月の諸隊の完全鎮圧まで、
長州藩は一種の内戦状態にあった。
・三藩献兵により中央政府は諸藩を威圧するに足る
軍事力の掌握に成功した。
その勢いを駆って諸藩の年貢徴収権も
中央政府に集中することは、論理的必然だった。

第3章 建設 1871-1880

新政府は薩・長・土など旧有力藩の家臣が握っているが、
その根拠は幕末期よりもはるかに弱く、天皇だけにしかなかった。
・議会が「民意」を代表して迫るべき中央政府そのものの正当性根拠が、
あまりに薄弱だった
・近代工場の視察に勢力を傾けた大久保は「富国」を、
「独裁の憲法」の結論に到達した木戸は「公議」を、
一年余にわたる欧米視察から持ち帰った
・当時の琉球は清国との間にも宗属関係を有しており、
清国は琉球人を日本人とはみなしていなかった。
・西郷軍掃討作戦に5ヵ月もかかり、最後の山城攻撃においては
372名の西郷軍を政府軍は四旅団、約1万2千名で包囲したのである。


第4章 運用 1880-1893

・1874(明治7)年の「民撰議院設立建白書」の、
いわば不用意な次の一文にあった。
すなわち、「それ人民、政府に対して租税を払うの義務ある者は、
すなわちその政府の事を与知可否するの権理を有す」
←当時の直接国税は地租だけであった
←納税者は自作農と農村地主。士族は払っていない。
・好景気を維持する限り税収が目減りするという地租制度の下で
財政を健全化する唯一の方法は、
政府の手で不景気を造り出すことであった。
1882(明治15)年に始まり、86(明治19)年まで
4年以上にわたって続いた松方デフレがそれである。
・1880年の東京卸売価格が1石10円59銭だったのに、
同財政発足3年後の1884年には1石5円29銭に低下している。
実に米価は3年間で半減したのである。
・中層の自作農を例にとると、その約30%にあたる
約28万戸が、自小作農に転落した
・韓国内の保守派が清国派となり、改革派が親日派となった
・井上毅の「憲法意見」の中の
「前年度予算施行権」も重要になってくる。
1890(明治23)年に議会が開設されるまでの間に
陸海軍軍拡を完了しておけば、
それは制定されるはずの井上型の憲法によって、
議会の削減から守られるのである。
・1889(明治22)年に国家の基本法たる
大日本帝国憲法が制定された以上、
在野の知識人たちの大議論は不要となり、
代わって憲法や諸法規の細かい規定にもとづいて
個々の政策を立案し実施する、官僚の役割が増大したのである。
・「超然主義」とは憲法発布の直後に黒田清隆首相が、
政府は議会や政党の意向に拘束されず、
「超然として」己の信ずる施策を行っていくとしたところから、
一種の流行語になった表現である。
・専門官僚の調査立案にもとづく政策は、
浅薄な知識にもとづく議会や世論の要求に優越する
・地租15円以上を納入する地主の所有地は、松方デフレの下で増大した
・衆議院議員総選挙における有権者
1890年約50万人
1900年100万人
1905年150万人(日露戦争中の地租増徴)
1919年300万人(選挙法改正)
1925年1200万人(男子普通選挙制)
・一時的な国民運動の高揚は、時流にうまく乗れば組織可能である。
しかし、長期的に全国の支持を得る必要のある「政党」運動にあっては、
長年地道に築かれてきた“地盤”が必要である。
・日本で初めて開設された議会は、
その日から「拒否権型議会」となったのである。
・明治憲法の中で一番悪名高いのは、
第11条の統帥権の独立と第55条の国務大臣単独責任制である。
前者は1931(昭和6)年の満州事変以降の現地軍の暴走の原因となり、
後者は1941(昭和16)年の対英米開戦やその終戦に関しての、
首相以下各大臣の責任の譲り合い(無責任体制)の原因として知られている
・「朕ハ閣臣ト議会トニ倚リ立憲ノ機関トシ、
其ノ各々権域ヲ慎ミ和協ノ道ニ由リ、
以テ朕ガ大事ヲ輔翼シ、有終ノ美ヲ成サムコトヲ望ム」
(『明治天皇紀』第8巻)
・面倒なのは、保守系の山県系から出た桂太郎が
結成した立憲同志会(1913年)が、
伊藤博文や西園寺公望の後を継いだ原敬の立憲政友会にくらべて、
より自由主義的だったことである。
軍部と官僚閥の牛耳をとってきた山県閥が、
より自由主義だった伊藤、西園寺、原の率いる政友会よりも、
自由主義的な政党(立憲同志会→憲政会→立憲民政党)を
結成してしまったのである。


第5章 再編 1894-1924

・「大正デモクラシー」という表現には、
大正時代にデモクラシーが存在していたような語感があるが、
それはあくまでも「運動」のレベルのことであり、
慣行や制度として二大政党制と普通選挙制が実現したのは、
むしろ昭和に入ってからのことであった。
・原敬は1921(大正10)年に非業の死を遂げるまで、
二大政党制と普通選挙制に反対しつづけて、
「再編の時代」を阻みつづけた、保守的な政党人だったのである。
・第一に、大日本国憲法は、「聖慮」と「閣議」が
「相異」なる事態を想定していなかった。
・臨時費で2億8000万円に軍拡を行えば、
それに伴って経常費も当然増加する
(臨時費で消耗品や俸給を支払うわけにはゆかない)。
松方正義蔵相とその後継者の渡辺国武の資産によれば、
陸海軍の経常費は平均で年間2000万円の増加である。
・軍事や経済や社会が日清戦争を境に大きな変容を見せていたのに比して、
「政治社会」だけは、頑ななまでに硬直していたのである。
・明治維新後に声高に叫ばれた「四民平等」のうち、
実現したのは「兵役の平等」だけだったから、
25万人を超える戦闘員は日本国民の各階層に「平等」に割り振られた
・最大の公約数はロシアとの無賠償講和反対
←市民運動
・「無産大衆とともに重税とインフレに悩むサラリーマンなど都市中間層。
前近代的性格の強い営業税など重税に資本蓄積を妨げられ、
政府の特権的保護を受ける大資本と対立する中小商工業者層(非特権資本家層)。
以上の都市民諸層の不満の代弁者としての新聞と、
既成政党の枠からはみ出た政客および記者・弁護士・実業家などよりなる
反藩閥の急進政治グループ。
このような諸要素が一挙に歴史の上に姿をあらわしたのが、
講和反対運動であり、講和反対運動であり、
これが新時代の起点となったのである」
←松尾尊叩覆燭よし)
・条約反対の国民運動は批准の時までに拡大を続け、
批准の日を境にパタリと止む。
1905年10月4日を機に、多様な民衆の混合運動は一気に消滅し、
農村地主を地盤とする保守政党、立憲政友会の時代が到来した
・約50万の有権者が150万に約100万人増えても、
その大半は農村地主であった。
・「大正政変」は、陸軍、海軍、政友会、金融界、実業界、
都市中下層などの多様な利害対立の複合によってもたらされた
・7年前の民衆運動は無賠償講和反対で、
今回のそれは「閥族打破・憲政擁護」だと言うと、
国家主義の民衆運動と民主主義のそれとは
根本的に違うように響くが、
運動参加者も参加者の行動様式も、驚くほど似たものであった。
・「大正デモクラシー」の内容を普通選挙制と二大政党制と定義すれば、
原敬はこのどちらにも反対した。
・「その後世間は社会主義論議にその興味を見出し、
デモクラシーに如きは、古本屋の一隅に塵にまみれて見出さるるか、
夜店の釣台の上により取り見取りのひやかし客の
手に触れるに過ぎぬようになった」
←蝋山正道『日本政治動向論』


第6章 危機 1925-1937

・憲政会(民政党)が勝てば「平和と民主主義」が、
政友会が勝てば「侵略と天皇主義」が強調されるという
1925年から32年にかけての二大政党制は、
政党政治だけではなく、日本国家そのものを
「危機の時代」に導いた一因だったように思われる。
・大型巡洋艦の対米7割が守れないままに
ロンドン条約を調印しようとする浜口雄幸内閣に対抗して、
海軍軍令部長の加藤寛治が直接天皇に
不同意の上奏を行おうとして天皇側近に阻まれ、
この上奏を待たずに内閣が条約調印の指令
をロンドンの全権団に発してしまったことが、
いわゆる統帥権干の犯問題である。
・参謀総長や海軍軍司令部長が、
総理大臣や陸海軍大臣を経由しないで直接天皇に上奏する権限を、
当時「帷幄上奏権」と言った。
この権限の行使を待たずに、あるいは無視して、
政府が海軍軍縮条約に調印してしまったことが、
海軍軍令部の「統帥権」を「干犯」したというのである。
・「統帥権の干犯」という名文句で政府を攻撃する知恵を
海軍や右翼につけたのは、日本ファシズム最高の理論家北一輝
・政友会が「統帥権の干犯」で民政党を追求し、
民政党内閣を代弁して美濃部達吉が
陸海軍大臣の「文官制」を提唱しているうちに、
二大政党の支配そのものを倒そうという「ファッショ」勢力が、
陸軍、海軍、民間右翼の間で、横断的統合をはかりはじめたのである。
・彼らは「尊王」よりも「尊皇」という言葉を多く使っていた。
「万世一系」の「天皇」を、一般の「王」とは呼びたくなかった
・健全財政主義を掲げる憲政会内閣(蔵相片岡直温(なおはる)が
金本位制への復帰を示唆したことが、鈴木商店の倒産、
台湾銀行の休業などで知られる1927年の金融恐慌の原因
・金本位制復帰による不景気と
アメリカ大恐慌によるそれとが重なってきたのであるから、
その社会的影響ははかりしれないものであった。
・1931(昭和6)年9月の満州事変から
翌32年の5.15事件までの8カ月の間、日本は危機の渦中にあった。
対外的危機と軍事クー・デターと経済危機の三重苦に見舞われたのである。
・明治憲法第11条で「統帥権の独立」を定めていた戦前の日本では、
関東軍の軍事行動について外相と参謀総長が直接協議したことも、
また両者が「意見の一致」した旨を外国に伝えることも、
明かな「統帥権の干犯」であった。
・関東軍の軍事行動を抑えられないならば、
英米による経済封鎖を避けられる唯一の方法は連盟脱退であった。
国際連盟規約(この場合は第16条)による制裁は、
連盟加盟国に限り発動されるからである。
・政治社会に一種の液状化が生じていたように思われる。
陸軍も政党も官僚もそれぞれが内部に分裂が生じており、
政治勢力というものが細分化されていた。
細分化されたいくつかの勢力を寄せ集めて
一時的に多数派を形成することはできても、
中期的に安定した政権をつくることは、困難になってきたのである。
・支配諸勢力が10に分かれるということは、
各派のトップだけをとっても10人の指導者がいたことになる。
そのような状況は、政治エリートの質の低下をもたらさざるをえない。
・もう一つの戦術は、美濃部達吉の「天皇機関説」を攻撃することであった。
この批判を肯定的に表現すれば「国体明徴」論
(天皇中心の日本の国体を明らかに証する)になる。
・久雄収氏が天皇制の二面性を「顕教」と「密教」と表現したように、
国民レベルでの天皇(顕教)は、国家の「機関:などではなく、
日本国家の統治者であった。
天皇は国家の諸機関の中で最高位に位置するが、
あくまでも国家の一機関にすぎないという「天皇機関説」は、
権力の内部でひそかに信じられていた「密教」にすぎなかったのである
・陸軍皇道派と結んで美濃部達吉の天皇機関説攻撃に専念してきた政友会が惨敗
←左揺れ
・宮中と政府の中枢を担ってきた「重臣ブロック」は、
叛乱によって壊滅的な打撃を受けた。
「重臣ブロック」が、民政党と陸軍統制派の支持を受けて
右翼的な二大勢力(陸軍皇道派と政友会)を抑え込むというシナリオは、
2.26事件によって崩壊したのである。
・2.26事件はそういう国民的支持を欠いた、陸軍青年将校の宮中革命であった。
彼らは、軍事クー・デター決行の後に国民に訴えたのではなく、
「君側の奸」を倒して天皇個人に訴えたのである。
・約1200万人の日本の有権者の多数は、
事件のわずか6日前の総選挙で「反ファッショ」勢力に投票した
・「速記録を調べて僕が軍隊を侮辱した言葉があったなら、
割腹して君に謝する。なかったら君割腹せよ」
「割腹問答」寺内陸相←浜田議員
・「東北の夫人が着用するモンペに
新工夫を凝らした新服装を草案することが刻下の急務」
←武藤貞一 焼夷弾による火傷を減らすため
・その時々の状況により、右に行ったり、
中道に行ったり、左に行くしかない内閣構成
・これ以後の8年間は、異議申し立てをする政党、
官僚。財界、労働界、言論界、学会がどこにも存在しない、
まさに「崩壊の時代」であった。
・異議を唱える者が絶えはてた「崩壊の時代」を描く能力は、
筆者にはない。


おわりに

・「国難」に直面すれば、必ず「明治維新」起こり、「戦後改革」が起こるのは、
具体的な歴史分析を怠った、単なる楽観にすぎない。
「明治維新」や「戦後改革」は日本の発展をもたらしたが、
第6章で明らかにしたように、
「昭和維新」は「危機」を深化させ、「崩壊」をもたらしたのである。







 
 

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