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『昭和史講義』
筒井清忠 編 
2015年刊 筑摩書房



昭和の歴史に関する認識をブラッシュアップし
バージョンアップさせてくれる本である。
日本は一方的に戦争へと突き進んでいったわけではなく、
戦争に反対する力が強かったがゆえにその反動も強く、
その反動の根拠が社会格差やマスメディアにあった。
貧しさから命をかける軍人になった者たちが
軍縮が決まった途端に平和の敵として後ろ指を指され
10万人近くが一斉にクビになるという理不尽。
そして暗殺やテロが起き、
何か起きるたびに、あるいは何も起きなくても
マスメディアは右に左に煽情する。
政治は足の引っ張り合い以外に目標を持たず、
何も決められないまま 突如「日本」とは言えない日本の果てで戦闘が始まり、
いつのまにか戦時バブルの熱狂にすべてが巻き込まれていく。
そして無為無策の政治を置き去りにして
優秀な官僚たちによる統制経済だけが着実に進んでいった。
その頃の経済の中心にいた人物の一人が
安倍首相の祖父・岸信介であった。
現在首相が繰り出す様々なスローガンは
戦時経済体制を作った祖父ゆずりのものかもしれない
そして意外なのは当初の大政翼賛体制を
先鋭的な右翼が強く批判したことである。
何が右で何が左かわからない、まさに右往左往の時代であった。



 



以下、本文より・・・

第1講 ワシントン条約体制と幣原外交

・幣原外交が、世界恐慌以降に台頭した自給自足圏構想や
アジア主義理念へ対峙する有効な理論を持ち合わせていなかった
・国際環境の変化による9か国条約の無力化、国内の革新主義の台頭、
そして日本的な官僚モデルからはみ出した
幣原のパーソナリティーのいずれもが複雑に絡み合い、
幣原外交を失わせたことは、結果から見ても日本の悲劇であった。


第2講 普通選挙法成立と大衆デモクラシーの開始

・特に朴烈写真事件では、天皇暗殺を企図したとして
「大逆罪」で死刑判決を受けた朴のスキャンダラスな写真が、
メディアで流布されて大衆の関心を集めた。
ここには急速に発展していたメディアの政治への影響力、
および後年のロンドン軍縮条約をめぐる
「天皇大権(統帥権)」干犯問題などに通じる、
政治的シンボルとしての天皇の存在感の浮上などが見られる。
・議会で政友会の質問攻勢にさらされ、
東京渡辺銀行の破綻を公言してしまった。
片岡の失言で発生した金融恐慌は、
政治闘争の産物でもあった。
・第1回普選では、有権者の急増をうけて
ポスターやレコードなどが積極的に活用され、
政党による選挙広告が新聞に出されるなど、
選挙戦の様相も華々しいものとなった。
さらに厳しい選挙干渉が行われた。
戦前の選挙では、不正な買収などが横行しており、
警察が違反行為を取り締まっていた。
普通選挙法では有権者数の拡大だけではなく、
買収の温床となりやすい戸別訪問を禁じ、
運動員や費用などにも規制を加えるなど、
選挙運営の改善が図られた。
・田中政友会内閣は元司法官僚の鈴木喜三郎を内務大臣にすえ、
露骨な党派人事を断行した。
与党の息のかかった府県知事や警察は、
野党に厳しい取り締まりを実施した。
投票当日に公表された違反人数は、
政友会164、民政党1701であった。


第4講 ロンドン軍縮条約と宮中・政党・海軍

・第58特別議会が開催され、当時の野党政友会が
倒幕の手段として統帥権干犯論を唱えて
政府を追及しはじめると、
この問題が一大政争に発展していった。
←1930年4月22日
・兵力量の決定については、憲法第12条にあるように、
いわゆる天皇の編成大権に含まれ、
内閣の(国務大臣)の輔弼事項といえた。
・「幣原外相が海軍省部の首脳者と腹蔵なく談合を重ねたならば、
軍令部の不満を和らげ、その収拾にあのような紛糾を
おこさなかったのではなかろうか」
←(『現代史資料7満州事変』解説より)
・条約反対側はイデオロギー的な視点でこの問題をとらえ、
同一の方向を志向する勢力の結集に成功した。
たとえば海軍の不満や危機感は、
満蒙問題の深刻化にたいする陸軍の危機感と容易に「共鳴」した
・ロンドン条約は必ずしも日本にとって不利な内容ではなく、
まして反対派が当初唱えたような「国防上の不安」を
感じさせるものではなかった
・「浜口民政党内閣は、条約締結という点では成功を収めた。
しかしその過程で、軍部あるいは反対勢力に強烈な敗北感や挫折感を抱かせ、
かれらを結集させてしまった。
また、軍縮体制下での日米両海軍力の均衡という情勢を反対勢力に利用されて
満州での軍事行動を発動する根拠を与えてしまった。
・政党政治システムの内部で、それぞれの有力な主体における誤算や不徹底、
あるいは小失敗やコミュニケーション不足の積み重ねが
システムの祖語を招くこと、
その祖語に付け入り体制を破壊する存在の発生をもたらしうること、
これらを念頭に研究を進めることの意義は、
現在でもなお大きいといえる。


第5講 満州事変から国際連盟脱退へ

・このような手詰まり状態は不況に苦しむ国内世論を硬化させ、
ようやく根付いたかに見えた政党政治も
世論を善導するよりは世論に迎合する悪弊に陥る
・議会演説で松岡が使用した「満蒙は日本の生命線」
という言葉が大流行した。
・1932年8月25日、第63帝国議会における演説で
斎藤実(まこと)内閣の内田康哉外務大臣は
「たとえ日本が焦土となっても満州の権益を守り抜く」
決意を表明し、「焦土外交」と呼ばれた
・連盟との決別をめぐる松岡と世論の乖離は
政党政治の規範が成熟していない段階における
大衆民主主義の危険を示していた


第6講 天皇機関説事件

・美濃部達吉は明治憲法の解釈として、
<統治権は天皇に最高の源を発する>という形で
天皇主権の原則を認めたが、
その統治権は最終的に法人である国家に属するとし、
天皇はその法人である国家の最高機関である、とした。
これが天皇機関説である。
・「15年戦争期に狂信的日本主義が横行するに至り、
天皇機関説を「兇逆思想」として攻撃する運動が
まき起こされ、昭和10年美濃部は失脚し、
天皇機関説をとる憲法書と憲法講義はすべて禁止されて、
同20年の敗戦までの期間、
この学派の思想は国禁の思想とされてしまった」
←『国史大辞典』
・天皇機関説は俗称であり、国家法人法と呼ぶほうが適切
・美濃部も日本の主権が天皇に属することを自明としていたから、
天皇機関説を天皇主権説に対立させるのは誤解であって、
この誤解こそが事件に発展した
・1936年4月、日本の国号が対外的に
「大日本帝国」に統一される経緯
・日本ではこのように、誰もが反論しにくい立場・主張、
否定しにくい指標・目標を持ち出すことで、
強引に自己の主張・行動をつらぬき、
相手を攻撃することがしばしばみられる。


第7講 2.26事件と昭和超国家主義運動

・国内的な平等主義と国際的な平等主義を結合したところが
北や満川ら猶存社の思想の特質といえよう。
・日本でも大規模な陸軍軍縮が二回行われ、
おおよそ将校3400名、准下士官以下9万3000名、
合わせて9万6400名の馘首が行われ、
大量の職業軍人が十分な手当もないままに
突然無職となった
・世界的な平和主義の広がりの中、
当時の軍官庁に勧める将校の中には、
通勤途中で嫌がらせを受けるので
背広で登退庁する者がいるありさまであった
・北一輝の『日本改造法案大綱』の
“日本に世界史的・文明史的に重大な使命がある。
中でも軍人はその中心になって天皇を中心にした
平等な社会変革を行い、さらにアジア開放に乗り出し
日本の文明的使命を全うすべきだ“
という思想は、「生きがいを見つけた」という形で
天啓のように受けとめられ浸透していったのである。
・“一挙的現状打破”の声
←1929世界恐慌の波、1924「排日移民法」、
1930ロンドン海軍軍縮条約、1929中ソ戦争、満州危機
・1935年7月に皇道派の中枢真崎教育総監を罷免した。
そこで怒った皇道派の相沢三郎中佐が、
永田鉄山中将を斬ったのが、同年8月の「相沢事件」である
・2.26事件は追いつめられた皇道派による
起死回生のための行動であった
・官僚たちの多くは「革新官僚」と呼ばれたが、
彼らの中には北一輝の本を読んでいた人も多く、
その一人岸信介は、大正時代に北にあって強く影響を受けていた。
・“植民地支配にあえぐアジアの解放を”
“貧窮にあえぐ民衆の敵=天皇周辺の親英米派的特権階級打倒”
という主張ほど当時強いものはなかった。
この発想は日本を太平洋戦争へと導く一端ともなる。


第9講 日中戦争の泥沼化と東亜新秩序声明

・宣戦を布告した場合、国際法上、
中国沿岸の封鎖が可能になるなどプラスの点もあったが、
アメリカの中立法が発動されて、
軍需物資の輸入が難しくなるマイナスが
プラスを上回ると判断されたからである。
・帝国議会等でこの文言の曖昧さを批判されると、
近衛(文麿)首相も広田(弘毅)外相も、
国民政府と和平交渉は今後一切行わず、
同政府を「抹殺」するまで戦い続ける、
と答弁することになる。
こうして「対手トセス」は国民政府「否認」を意味するものとなり、
日本の「事変処理」政策を厳しく拘束してしまうのである。
・1937年12月には、北京に中華民国臨時政府が擁立され、
翌38年3月には南京に中華民国維新政府が成立した。
・1939年12月の時点で、日本軍が中国に派遣していた兵力は
約85万人(25個師団)に達している。
戦死者は、大東亜戦争開戦までに18万5000人を超え、
戦傷者も32万5000人を数えた。
中国側の犠牲はこれをはるかに上回った。


第10講 ノモンハン事件・中ソ中立条約

・国際秩序構想として、世界を
「大東亜圏、欧州圏(「アフリカ」ヲ含ム)、
米州圏、ソ連圏(印度、「イラン」を含む)ノ4大圏」とする
・中ソ中立条約の存在は日本陸海軍に「北方静謐」をもたらし、
日本が南方に軍を進めるうえで大きな歴史的転換点となった


第11講 日独伊三国同盟への道

・8月23日、ドイツはソ連と不可侵条約を結んだ。
ドイツは、「反ソ」から「親ソ」に政策を転換させたのである。
それは、ドイツのイギリスへの態度も疑わせるに十分だった。
独ソ不可侵条約締結とともに
「複雑怪奇」声明を出して平沼内閣が総辞職
・日独防共協定締結直後、最後の元老・西園寺公望は
「どうも日独条約はほとんど十が十までドイツに利用されて、
日本は寧ろ非常な損をしたやうに思はれる。
で、一体親独といふことは従来藩閥中にあるのであって、
全体の日本人の気持ちといふものがやつぱり
英米と親しまうとする気持ちの方が強いやうに思はれる」
と親独の系譜への嫌悪を表現していたが、
英米派の牙城とも見なされている海軍にも、その影響が見られた。
・三国同盟は強固な軍事同盟ですらなかった。
イタリアは、この間、日本の意図を知るために
ベルリンに赴かねばならなかった。
日伊間のコミュニケーションは無きに等しかったのであるが、
日独関係の研究者もこの同盟を「空洞同盟」あるいは
「絶えざる摩擦、嫉妬、互いの不信感、
明白な裏切り行為によるおらが国本位」の政策
などと呼んではばからない
・三国同盟締結の衝撃は、それが英米との戦争への道の
決定的な転機であったこと以上に、
ほとんど全く機能しなかった同盟が
実際に結ばれた事実そのものにあったのではないか。


第12講 近衛新体制と革新官僚

・多くの資源を輸入に頼る「持たざる国」日本が
経済力を超えた軍事費支出を行うことで
経済統制が必要となり、
それが日中戦争により一層深刻になることで
資本主義原理そのものを変革する経済新体制が
求められるようになった
・軍事費を中心とする財政膨張は一種のバブル景気を生み、
それに伴い人々の消費意欲が高まり、観光や出版物、音楽、
さらに百貨店での買い物を楽しむ消費文化がこの時期に広まった。
そうした消費文化の広まりが観光の一環としての
神宮や天皇陵への参拝、膨大な戦争報道の消費、軍歌の流行、
慰問袋の購入などを通じて総動員体制の一翼を担うことになった。
40年の新体制運動とほぼ同時に繰り広げられた
各種の紀元2600年記念行事は
こうした消費文化による国民動員の象徴であった。
・美濃部や迫水らテクノクラートにとっては
奥村や毛里らの思想は自分たちの統制実務を正当化するものであり、
一方で奥村や毛里らのイデオローグは
美濃部や迫水の実務能力を必要としていた
・権力の空白の中でイデオロギーと実務能力を備え、
陸軍の後援も受ける革新官僚が急速に台頭する
・自由放任の経済に「全体的公益の立場」から
統制を行うために執行権を強化することが強調され、
そのため憲法改正、少なくとも憲法の運用の変更が
必要であると述べられており、
政治新体制は究極的には
大日本帝国憲法の改正を目指すものであった。
・政党がほぼ全て解散して新体制運動に参加したことは
逆に既存の秩序を取り込むことになり、
当初の一国一党的な政治体制を作り上げることを困難にした。
さらに国体論に基づく観念右翼からは
一国一党は天皇から権力を奪うものであると攻撃が行われ、
「党」ではなく全国民的な組織として
大政翼賛会が40年10月に発足する
・いわば「民有国営」方式で
国家の必要とする生産を行おうとするのが
「資本と経営の分離」論であった。
・根本的な原因である戦争と軍事費支出増加を
抑えられないためますます物価抑制のための
統制が進められ、理念とは無関係に
「統制が統制を呼ぶ」結果となっていた。
・新体制反対論は明治維新の成果である大日本国憲法を
擁護しようとする当時における護憲論であった
・41年4月の改組により大政翼賛会は政治性を失って
事実上戦争協力のための政府の外郭団体となり、
当初の政治新体制の目標とは程遠い結果となった。
結果として残ったのは、
各種の個別の経済統制や政府の外郭団体となった大政翼賛会など、
国民動員のための枠組みであった
・「日本のファシズムは、
ファシズムに値するほどの異常性を表現したものではなく、
近代日本の伝統的な官僚制の異常な適応にすぎなかった」
←橋川文三


第13講 日米交渉から開戦へ

・東久邇宮内閣が想定されたが、
皇族内閣が開戦して敗北した場合、累は天皇に及ぶ。
このため東久邇宮案は葬られ、組閣の大命は東條陸相に降下した


第14講 「聖断」と「終戦」の政治過程

三種の神器は岐阜県高山市にある
水無神社(飛騨一宮水無神社)に移動させる予定であったようだ。
天皇は「万一の場合には自分が御守りして運命を共にする」と述べた。


第15講 日本占領―アメリカの対日政策の国際的背景

・戦後日本の運命は、冷戦と中国情勢によって
決定されたといっても過言ではない。
・米国務省は、日本の工業設備を、
中国を中心とする東アジアと東南阿アジアへ移送して
工業化をジャンプスタートさせる構想をもっていたが、
これは封じ込め政策を推進するケナンが
国務省内で対日政策の主導権を握るとともに撤回された。
・日本は、米国市場という、終戦時には
世界経済の約半分を占めていた経済圏へアクセスできた。
そして米国主導の世界銀行からドルを借り受け、
米国企業の技術、設備、生産システムのノウハウを取得した。
米国が推進した日本との経済・文化交流により、
日本の産官学は米国の世界最先端の技術や
生産システムを貪欲に吸収していった


あとがき

・本人自身も何が新しいのかわからないままに何かを言い、
それをまたよくわからぬままにマスメディアが増幅するというのが、
教養主義が衰退した現代という時代の姿



 
 

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