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『昭和維新試論』
橋川文三 著 
2013年刊 講談社学術文庫



明治の終わりから昭和の初めにかけて、
戦争に向かって流れていく時代の意識を
当時を生きた個別の人物に寄り添うように分析した評論である。
雑誌連載をもとにして、最後まで仕上げることなく
著者が亡くなっていることもあり
全体としてのまとまりにはやや欠ける気はするが、
取り上げられている個々の人物への思い入れは強く感じられる。
特に渥美勝などに対して感じられる共感は
客観的な人物評を超えて強引な気がするほどで、
著者はそこに自己の深い心理を勝手に重ねているように思う。
しかし著者が感じているそれぞれの人物への共感は、
この評論にリアリティと迫力を与えている。
歴史的事実としてのリアリティではなく、
そこにそんな人物が確かに存在したのだというリアリティである。
そしてそんな人々がいたことをリアルに感じることで、
その時代をもリアルに感じることができるのであり、
その時代が現在まで続いていることを理解できるである。
それは戦前も戦中も戦後も今もずっと
果てしなく続いている
苦悶と疑問と愚問の近代という世界である。


 



以下、本文より・・・

序にかえて

・「古武士的精神と新時代の理想との混血児たる今日の青年が、
物に激して何事を仕出かすか分かったものではない」
←吉野の朝日平吾論
・明治期における幾つもの政治的暗殺者をつき動かした
志士仁人的捨身の意欲と、
第一次大戦を画期とする資本主義の発達と
貧富の階級分化がひきおこした経済的平準化への
平民的欲求との結合形態が朝日一身に認められる
・被支配者の資格において、
支配されるものたちの平等=平均化を求めるものの欲求に
根ざしているというニュアンスの差がある。
・朝日のパーソナリティに見られる傲慢とさえいえる要素と、
その反面におけるむしろ病的というに近い
懐疑・怨念・挫折の感情との複合、葛藤の中から、
近代日本人にとって、
ある意味では未知というべき感受性が形成された
・私はもっとも広い意味での「昭和維新」というのは、
そうした人間幸福の探求上にあらわれた思想上の
一変種であったというように考える。


1 渥美勝のこと

・「人生とは何ぞや、われは何処より来りて何処へ行く、
というようなことを問題とする内観的煩悶の時代でもあった。
立身出世、功名富貴のごとき言葉は男子として口にするを恥じ、
永遠の生命をつかみ人生の根本義に徹するためには
死も厭わずという時代であった」
←岩波茂雄
・原始的要素はその後の渥美の行動をつらぬいてもいた
・この種の詩人的・空想的な神話との同一化という傾向は、
明治30年代以降、しばしば日本知識層の中に
さまざまな形であらわれているものと同じである。
一般に明治30年代の「日本主義」は未熟なままに
世界の前に開かれた「自我」意識が、
自己をいわば夢想的・抒情的に偉大化しようとする衝動に
みちびかれたものという気味がつよい。
・世界的な潮流となろうとしつつあった帝国主義に対し、
ナイーヴに自我と日本国家の生命に同一化し、
その日本民族=国家の卓越性を立証しようとする傾向を
共通にあらわしている。


3 「桃太郎主義」の意味

・みこし理念が、しばしば日本人のお祭り的熱狂
―政治の論理も思想の論理もその中に溶解してしまう
全国民的集団ヒステリアの説明のために引き合いに出される
・「神輿は<権威>を、役人は<権力>を、浪人は<武力>を
それぞれ代表する
←丸山真男
・日清戦争後の本や雑誌を手当たりしだいめくっていて、
そこにいかに熾烈な資本主義的成功熱が瀰漫しているかを知って
少しばかりおどろいたことがある。
それらの出版物の中には「いかに成功すべきか」
「いかにして上役に愛せらるべきか」
「かくのごとき人物は必ず成功す」等々の記事が
氾濫していた
・不思議なことに、その同じ時代はまた、
いわゆる「人生とは何ぞ」の追求に
青年が文字どおり生命をかけた時代でもあった
・帝国主義の外延の果てしないひろがりに面して、
一種の分裂症的眩惑にとらわれたかのように見える
・昭和維新の願望をもっともナイーヴに、
鮮烈に印象づけた人物が渥美であったとするならば、
それは「昭和維新」が、まさに20世紀初頭、
世界的潮流となっていた帝国主義に対する
日本人の初心の精神的反応の中にその起源を
もっているからであり、そして、渥美の
ほとんどの思想とも行動ともならなかった生き方の中に、
人々が自らの維新願望の原型を
たえず回顧せしめられたからであろう。


長谷川如是閑の観察

・何かが、この時期に巨大なかげりのようなものとして
日本人の心の上を横切り、
それ以前とは異なった精神状態に
日本人をひき入れたのではなかろうかという印象
・精神的な大亀裂(シズム)


5 青年層の心理的転位

・「明治日本」から「帝国日本」への転換
←マリウス・バーサス・ジャンセン
・生活の定型喪失にともなう「神経衰弱」「煩悶」
「発狂」「自殺」等の現象が明治初年に多く見られた
・「自己完成の可能性へのオプティミズム」から
懐疑的な「内観的夢想」(introspective reveries)への転位
・「現代人の孤独」とでもいうべき様相が
青年心理の中に登場するのはこの時代


6 樗牛と啄木

・感傷による自己批判という近代文明の一つの原型が
樗牛において明らかにあらわれている
←斎藤野の人(信策)「高山樗牛」
・「何ものも真ではない。一切は許されている」
←ニーチェ『道徳の系譜』 樗牛の愛誦句
・「一切の美しさはみな虚偽である」という前提から出発し、
前二回の失敗を再びすることのない道を選択するということであった。
そこに啄木の有名な「必要!」という理念があらわれてくる。


7 明治青年の疎外感

・「[日本において]個人析出が明確な型をとって出現するのは
せいぜい日清戦争以後、1890年代後半からである」
←丸山真男『日本における近代化の問題』
・「<高等遊民>とか<煩悶青年>とかいう
当時の新聞・雑誌の流行語は
急激に膨張してゆく都市化されたインテリ層の
私化と原子化の傾向を巧妙に物語っていた」
←丸山真男『日本における近代化の問題』
・近代日本における「個人析出」(Individuation)の
さまざまなパターンを「自立化」(Individualization)、
「民主化」(Democratization)、「私化」(Privatization)、
「原子化」(Atomization)という4類型に
←丸山真男

 


・「個人が政治的権威の中心に対していだく距離の意識」の度合いと、
「個々人がお互いの間の自発的にすすめる結社形成の度合い」
・旧時代の人間として社会的にも家庭的にも
指導力と維新を失いつつある父兄と、
すでに明治10年代から沈滞の様相をこくしつつある故郷(=地方)と
、 ますます人口を増大せしめつつある「東京」というイメージ
・とくに東京はその表面の華美と繁栄にかかわらず、
はやくも一種精神的なスラムというに近い 人間集団の大群落と化し始めていた
・「オオ、繁華なる都府よ、人の多くはこの実相の活動に
眩惑せられて成心なき一ケの形骸となり了る。
吾はこの憐れむべき幾多の友を見たり」
←石川啄木 明治35年10月
・技術的合理化は「新しい差別をつくる格差の発見」を
たえず強制するということが問題であった。
・文明は「その社会の中で多量のエントロピーもまた作り出す」
という言葉のとおり、新しい差別と無秩序とを
広氾に造成し始めていた
・丸山教授の見解では、「成功」につかれた青年も、
内面の苦悶に沈潜する宗教青年も
、 官能に惑溺する遊蕩青年も、
いずれも「私化」の類型に収められるのに対し
(この類型から自然主義が生れる)、
「原子化」の傾向を集約的に表現するものは、
初期の工業化社会、都市化の過程で急激に増大した
「渡り職工や流れ者」的労働者の群れであったとされる。
とくに日露戦争、各地におこった
猛烈な工場、鉱山における暴動は
これら「絶望的に原子化された労働者の痙攣的な発作」として
巧みに説明されている
・1900年代初期の日本は、
マスとして「原子化」「私化」しつつある群衆を素材とし、
天皇の権威を頂点として精密な構造化を完成した帝国であり、
その帝国内に生きんとする限り、
自らその帝国の機構の運転者となるか、
さもなければ帝国の生活運動とは無関係に、
自己の「私」をまさしく私生活内の世わたりとして磨きあげるか、
もしくは官能ないしなんらかの手製の信仰の中に、
その「私」をとじこめるしかないという状況であった
・多くの「高等遊民」化した青年たちが
「何か面白いことはないかねえという不吉な言葉」(啄木)を
口々につぶやきながら、砂粒のように漂白しなければならなかった


戊申詔書

・「道徳もまた弛緩し、軽佻浮薄の風が滔々として一世を風靡する」
「明治天皇また、かかる人心の憂うべき傾向を
御軫念(しんねん 天子が心を痛めること)あらせられて、
41年10月13日かしこくもこの詔書を下されて、
国民を戒飭(かいちょく 注意を与えてつつしませること)
あそばされたのであった」
←「虔修・大日本詔勅通解」
・大正二年のある地域調査によれば、皇統小学校卒業者1343名中、
「戊申詔書の意義を理解し
ほぼこれを口唱したるもの答解者只一人ありしのみ」
という状態であったということにこそ、
この時代の危機の深さが暗示されているといえよう
・明治末年の日本支配層の心理を震撼させた事件
←ポーツマス講和にからむ日比谷暴動、アメリカの排日運動、
韓国の抗日運動、足尾・別子銅山の暴動、赤旗事件、
伊藤博文の暗殺、大逆事件、南北朝閏問題など
・幸徳事件の羅職にさいして、主たる機因となったものは、
元老山県の社会主義に対するほとんど病的な恐怖感であった
・日刊平民新聞の連載読物「妖婦下田歌子」
・第一には日露戦後の社会がろこつな競争原理に
支配されるようになったための精神的負荷の増大があり、
第二には人口の都市集中が進んだことと、
その都市の生活環境の悪化ということが考えられるであろう。
・「そこで精神病者の多くというものは
概して東京生活の人にあるのである。
こういう具合であるから、
東京でもって平和なる家庭を作ろうとか、
或は子孫長久の策を立てて生活しようとかいうことは
到底無理なことである」
←石川天崖『東京学』明治42年
・当時の青年たちのあるものが、明治期における
それまでの日本人生き方すべてを拒絶さるべき
「誤謬の歴史」と考えるようになったことが重要である


9 地方改良運動

・政治史上「地方改良運動」とよばれる
官僚の国家構造再編運動のことである。
これが、1910年代における大規模な
天皇制体制の再編計画であったことは
ひろく認められている
・凡そ1890年前後にその骨格を形成した明治国家の統治が、
1910年前後、1930年前後において
それぞれ重大な機能不全におちいり、
その都度、くりかえして体制改造の必要に迫られた
・もともと本格的な社会政策の実行をめざしたものであった。
ただ、当時社会という言葉そのものを
一種危険な用語とみなすようなムードがあったために、
それを地方に転嫁した
・二宮尊徳の顕彰を中心とする報徳運動のめざましい展開
・「郵便貯金も戦前まで5,6千万円であったのが、
戦争当時から俄かにふえて1億からの高に上っている」
←床次竹二郎『地方自治及振興策』
・この運動の全体の印象をいえば、
それは、それらの若手官僚が、
全国各地から上京して地方局をたずねてくる
おびただしい「町村長や篤志家、徳行者はいうもさらなり、
社会事業家、神官、僧侶など」をまきこんで展開した、
ほとんど「処士横議」というに近い運動であった。
・たんなる講演・講習というのではなく、
これまで全国にちらばって相互に知ることもなかった
篤志者たちを一カ所に集め、
それぞれの実験談を交換せしめるというその方法は、
あたかも信仰告白の競争にも似たムードを生み出し、
運動全体にある熱烈な宗教運動のような様相をさえ与えた。
・第一に憲法政治の外廓の完成を達成した明治前期の官僚たちに替って、
地方自治の内面化の任務を継承したものが明治後期の官僚たちであった
・国家、統治、臣民という明治憲法の諸カテゴリーが疑われ始めた
・「地方の発見」という言葉で形容したことがあるが、
それは統治の観点からいいかえれば、
「政治」に対する「行政」の意味の発見といってもよいものであった。
・「政治」が生活者の意識に到達しえず、
「土着化」しえないとするならば、
それを可能とするより有効な方法は「行政」にほかならない
←「維新の残務の遂行」(第二維新)
・当時全国にあった大小の神社19万5000余社のうち
「由緒ナキ矮小ニ村社無格社」凡そ18万9000余を
統合整理しようという大がかり処置
←三重県で9割、和歌山県で8割削減された
・市町村の財政基盤を強化するために必要であった
部落有林野の市町村財産への統一のために、
矮小な神社を整理して一町村一神社への統合を行うことは、
いかにも地方民心を一新する巧妙な手段と考えられる措置でもあった
・この神社統合はその実行過程において
かえって地方民心の大動揺をひきおこし、
のちにはしだいに尻すぼまりに消えていくことになる
・「由緒ナキ矮小ノ村社無格社」の排除と合併というていどの
些細な事業が「村民激昂し、路上に神輿が暴れ、石降り瓦飛ぶの痛事」
←小野武夫『農村史』
・もしこの構想が完全に実現したならば
そこに出現するはずの日本国家は、
宗教と政治と産業と教育と軍事とを混然と統一した
一種の兵営国家(ガリソン・ステート)となったであろうと
私は想像する
・「在郷軍人として郷党の模範となり、
地方の中堅となるべき良民となさねばならぬ。
この意味において兵営は国民学校である。
この学校卒業の青年は、ほとんど数百万に達する。
数百万の働きざかりの満期兵は、実に国家の一大勢力である」
←田中義一
・「帝国青年会は、これを解けばじつに40府県青年会となり、
600都市青年会となり、ついに1万2000町村青年会となる。
←山本滝之助
・地方改良運動は、市町村財政のために
「日本型エンクロージュア」とよばれる
部落有財産の統一を強化し、
神社財産の造成のために神域の大濫伐をあえてしたが、
国家のために無益と思われる人間の精神活動に対しても
容赦ない「エンクロージュア」(囲い込み)を敢行した
←異端思想の抑圧、教科書改訂
・この運動の意味を改めて簡単にいえば、
それは「明治日本」から「帝国日本」への
脱皮の完成ということになるであろう


10 田沢義鋪のこと

・明治末期官僚
(それは凡そ明治30年代以降に大学を卒業して官界に入った人々をさす)
を実務上の推進力として展開された地方改良運動は、
結局「宗教と政治と産業と教育と軍事とを渾然と統一した
一種の兵営国家」の実現を目ざしたものであり、
それはまた牧歌的な小国家から、
より近代的な帝国主義の機能を具えた大国への脱皮を
めざしたものと考えられるのではないか
・その試みが、新しい意識をみにつけた
新世代の官僚層によって推進されたということ、
そしてその新しい意識というのは、前節での言葉を使えば、
政治に対する行政への敏感さであるということであった。
・『村造りは人造りより』
←田沢義鋪
・「昭和維新」の衝動がめざめ始めたのは
米騒動から大震災の前後にかけてである
・国本社が平沼を中心としてある
巨大な官僚勢力のイメージを提起した


12 日本的儒教の流れ

・漢学振興の必要の強調は、当時の保守層が第一次大戦以降の
日本の思想変動に対処しようとした試みの
一環にほかならなかった
・平沼らの漢学振興建議案から国体明徴運動をへて、
昭和10年代後半に実現した日本の教学と世相は、
福沢が描いたカリカチュアと本質的に異なるものではなかった
・儒学によって練磨された日本知識人は、
儒学思想そのものの中に含まれる普遍主義の契機の援用によって、
外国との交際という新しい状況を
彼らにすでに知られていた論理世界のできごととして
読みかえることにかろうじて成功した
←尊皇攘夷からの開国への転換
端的にいって、日本の儒教=漢学が決して中国そのままのものではなく、
それが日本において協調される場合は、
むしろ日本固有の道徳を普遍的なものとして
主張しようとする場合であることが多いということが
注意されなければならない。
・日本は、その漢学復興のジェスチュアによって、
「東洋道徳」の最良の部分を代表するかの如き錯覚をいだいていた
・難波大助事件(虎ノ門事件)
←大正12年12月27日 摂政皇太子裕仁親王襲撃


13 癸亥詔書

・文学における「新感覚派」の登場という現象である。
たしかにそれはもっとも象徴的に第一次大戦後、
とくに大震災における「人間退廃」の状況を反映する
社会史的現象であった
・「目にする大都会が茫々とした信ずべからざる焼け野原となって
周囲に拡がっている中を、
自動車という速力の変化物が初めて世の中をうろうろとし始め、
直ちにラジオという音声の奇形物が顕れ、
飛行機という鳥類の模型が実用物として空中を飛び始めた。
これらはすべて震災直後わが国に初めて生じた近代科学の具象物である。
焼野原にかかる近代科学の先端が陸続と形となって顕れた
青年期の人間の感覚は、何らかの意味で変わらざるを得ない」
←横光利一
・近代科学技術によってつくり出されたおびただしい疑似的実体の氾濫
・実体に代って無数のコピイが人間の感覚を刺激する媒体として作用を開始し、
かつての明治・大正期の人々が信頼しえたものと
人間とのなじみぶかい関係も解体し始めた
・ある意味では第一次大戦後、
世界のあらゆる地域の若い世代の感受性に
生じたものと同じ性質のものであった
・「日本ファシズム運動の人的貯水池」とよばれる老壮会
・同じころ結成された黎明会の吉野作造、福田徳三、今井嘉幸、
新渡戸稲造、三宅雪嶺、森戸辰男、佐々木惣一、大山郁夫、
阿部次郎、与謝野晶子らという顔ぶれに比べてよい対照をなしている
・「古き皮嚢に新しき酒を盛らんとするかに見ゆる老壮会」
←社会主義者を会に呼び知識を吸収
・日本ファシズム運動史をたどるには、
この猶存社に結集した右翼人の思想とその経歴を
たて糸として追及するのがもっとも適切


14 北一輝の天皇論

・大正後期に奔流しはじめたさまざまな国家改造
(ないし革命)の構想のパターン
・近代日本思想史上にもまれな天皇論を基礎として
国家改造をはかろうとした
←北一輝
・天皇を民族社会の有機的統合と発展を代表する
「国家の一分子」としてとらえ(=国民の天皇)、
国民は天皇とともに国家の最高機関を形成すると考えるもの
・明治期の伝統的な国家論の全面的否定
・要するに、北は一面において天皇=現人神という
神権説的俗信から天皇を開放し、
他面では国民をアプリオリに
「忠良」を義務づけられた「臣民」から解放している。
いずれにせよそれは「国体論」の
全面的な否定の上に構想された日本国家論であり、
当時の国家権力にとっては許すべからざる異端邪説であった。
・それがたんに改造の順序手段を示した無味乾燥な文書ではなく、
人々の心情と理想を震撼せしめるような
一つの世界直観をその背後にひそめていた
←日本改造法案
・北の影響下にあるもの(皇道派)と、
然らざるもの(統制派)との対立
・天皇は人間をこえた神聖な存在であるとともに、
国民の天皇であるいう観念の複合があらわれている。
聖なる現人神と俗なる国民との一体化ということは、
いわば一種の神人交感の境地の実現ということにも通ずる。
青年将校たちが求めたものは
そのような国家状態にほかならなかった
・ロマンチックな反逆精神と天才主義的な絶対帰依の傾向とが
北思想の特性であるとすれば、
その前者は青年将校の正義感情に、
後者は、選ばれて天皇擁護の使命を担うという
青年将校のエリート意識に訴えやすかった
・北の天皇論は理論的にはきわめてラジカルな
「天皇機関説」の側面をそなえていたのに対し、
青年将校一般の天皇論は、北のその機関説的契機を抜きにして、
心情的な天皇帰一を空想したというちがいである。
・「<何も彼も天皇の権利だ、御宝だ、
彼れも是れも皆天皇帰一だってところへもっていく。
そうすると帰一の結果は、天皇がデクノボーだということになる。
それからさ、ガラガラッと崩れるのは>
これが統帥権干犯なる大義名分論の真意である」
←寺田稲次郎「革命児・北一輝の逆手先方」
・(永田鉄山が)陸軍省内の臨時軍事調査委員会員としてまとめた
「国家総動員に関する意見」(大正9年)というのが
日本における総力戦構想の発端
←『秘録・永田鉄山』
・永田は、大正末期いらいの複雑な軍部内派閥抗争の
渦中において、自らある勢力にとっての敵、
ある勢力にとっての柱石と目されるようになっていった


15 国家社会主義の諸形態

・右翼革新派は日本の伝統=国体の純粋化によって
社会的諸矛盾を解決し、ひいてはその模範を
普遍的な世界救済の原理として拡大しうるものと考えるに至った。
のちの「八紘一宇」の発想もその系統をひいている
・マルクス主義はそれまでの個別科学の研鑽ではなく、
あらゆる現実を総合的にとらえるその体系性において
知的な驚異であったばかりでなく、
その方法の必然的帰結として、世界の「解釈」ではなく、
その「変革」という「実践」(=党派性の問題)をも同時に提示した。
・コミュニズムの革命理論において、
もっとも重大な躓きとなったものは天皇制の問題であった。
いうまでもなく、天皇の国家、
その国家の基礎細胞としての家という固定観念は、
明治以来もっとも強力に日本人の思考と心情を
とらえていたものであった。
唯物論にもとづく革命は、最終的には
この観念の解体の上に築かれねばならないものであった。
・共産主義者たちの「集団転向」(昭和8年)が開始されたとき、
彼らの転向のきっかけとなったものは、
ついに日本マルクス主義によって解明されることのなかった
「家」と「民族(=天皇)」にほかならなかった。
転向者は、かえって熱烈な日本主義者の行者へと転身するものが多かった
・(高畠素之は)人間が、特殊には日本人大衆が、
一方では国家機能の健全さを欲求し、他方では社会主義のいう人間平等
(=疎外からの解放)を欲求する存在であることを
事実上認めざるをえなかった。





 
 

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