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『供犠』
M・モース/H・ユベール 著 小関藤一郎 訳
1993年刊 法政大学出版局


原題は Essai sur la nature et la function du sacrifice
1889年刊行
 

「宗教的観念は、信じられているが故に存在する
しかも、それは社会的事実のように、客観的に存在するのである」

モースはそう考える。
モノの積み上げではなく、観念の体系こそが
われわれにとって世界そのものなのだ、ということだろうか。
<贈与>という行為の体系が「全体的社会的事象」であるように。

「供犠とは、犠牲の聖化により、これを行う道徳的人格、または、
この人格が関心をもつある種の対象の状態を変化せしめる宗教的行為である」
では、なぜ犠牲が必要なのか?
それは 「人間と神は媒介なしに接触することはない」からであり
犠牲の媒介によって 「人間と神の血の交換による生命の融合」するからである

では、なぜ媒介が必要なのか?
それは、聖なるものと俗なるものとその媒介が 同時に一挙に観念されたから…
そしてその瞬間から、それらは客観的事実として存在するのである。

(はじめから)「犠牲に供される動物の中には 供犠の式が正しく開放することを目的とする霊が存在する」
祭主は 「供犠祭主の宗教的汚れを犠牲に移しかえ、犠牲とともに、これを除去する
これが「脱聖化(desacralisation)の供犠」である。
「犠牲は宗教的感情の集約化の手段であり、それを表現し、具現し、伝達する」
「儀式の中で破壊される事物の媒介によって、 聖なる世界と世俗の世界の間の伝達を確立する」
「犠牲を通じて聖なるものを供犠祭主の間に成立する結びつきにより、 祭主は再生し、新しい力を与えられる
「(儀式は)供犠祭主をめぐる閉じた円環」
宗教的汚れの除去と祭主の再生、そこにその区切りをつけること その行為そのものが世界を創るのである。

観念と象徴の高みから降りてきた時
「犠牲を聖なる世界に移行させた聖化は、 神的人格への帰属または贈物として現れてくるのである」
「最初には聖化の全体は初穂に集中される。 次にこの初穂は犠牲によって代表され、この犠牲は除かれることになる」
そこに現れるのは、だだの人はなく、だだの豚ではなく、だだの麦ではない。
それは聖なる<恵み>になるのである。

聖なるものは、何か大事なものを放棄した時に訪れる。
すべての供犠には、自己犠牲の行為が含まれる」のである。
ここに贈りものの起源もある

このような供犠の運動は、あらゆる神とともにある 
ギリシャなどの神話においても
「神話が神を生きたままの試練から脱出せしめるのは、 再び神をこの試練にかけるためである」
インドの古代においても
「はじめには何物も存在しなかった。 ただプルシャの願いがあっただけである。
神々が諸々の事物の存在を生成せしめたのは、 プルシャの自殺、彼の自己放棄、
その肉体に対する拒否 ―これこそ後の仏陀の拒否の模型であるが―によってなのである」
キリスト教においても
「キリスト教の構想力は古代の模型の上に立って展開されたのである」

逆に言えば
われわれのあらゆる恵みが実在する時、
あらゆる神々は実在するのである

 

 
 


 
 

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