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新訳『贈与論』
―アルカイックな社会における交換の形態と理由―
M.モース 著 森山工 訳 
2014年刊 岩波文庫


既に3回も4回も訳されているのに、2014年になって今更、
それも文庫で、この本の新訳が出るなんて、
いったい何故なのだろう。
確かに社会学・人類学系の最重要な一冊として
岩波文庫のラインナップになければならない
という本ではあるが…

で、岩波がプライドを捨てて
「後出し」をしてまで
そこまで売れるはずもないこの本を出版したのは
たぶん「訳がいい」からである。
そう、この訳だったから
プライドを捨てるのではなく
プライドを賭けて出す価値があったのだろう。
という感じの
そして短い2編のオマケ付!でもある
<決定版>的な翻訳である。

ちょっと活字がかすれたような
威厳もあるけどカビ臭くもある古書的古典ではなく
読みやすく、わかりやすく、
今にその価値を伝えるべき
生きた、あるいは甦った古典となっている。

古色蒼然の古典資産を背景に背負いながらも
岩波文庫はまた少し変わった…

 


以下、本編をやや詳しくたどる

序論 贈与について、とりわけ、贈り物に対してお返しをする義務について

貨幣経済が中心となる前のアルカイックな社会では、
「交換」ということはどのようになされていたのか。
それは強い強制力をもった「贈与」というかたちで、
その社会全体を動かしていた…

個別の事象ではなく
それらのつながりとして
生きて動いている人々と社会
贈与論は<全体的社会的現象>宣言からはじまる


本文では、以下のように書かれている

「全体的な」社会的現象には、
あらゆる種類の制度が、同時に、かつ一挙に、表出されている

それは、宗教的な制度であり、法的な制度であり、倫理的な制度である
―この場合、それは同時に政治的な制度でもあり、家族関係にかかわる制度でもある。それはまた、経済的な制度である―
この場合、それは生産と消費の何らかの特定の形態を前提としている。
あるいはむしろ、給付と分配の特定の形態を前提としていると言うべきかもしれない。
その上にさらに、これらの事象は審美的現象にも行き着くし、
これらの制度は社会形態学的現象としてあらわれもするのである

・交換というものが
―交換とは社会分業にほかならないのだから、つまりは社会分業というものが―
必然的にある一つの形態をとるとき、
どうしてそれがこのような装いをまとうようになったのか、
それに関する原理をすべて細かくみてゆくことになる。

・遅れた社会、もしくはアルカイックな社会においては、
法規範と利得の追求にかかわるどのような規則があって、
贈り物を受け取るとお返しをする義務が生じるのだろうか。
贈与される物にはどのような力があって、
受け手はそれに対してお返しをするよう仕向けられるのだろうか


・そこに見ることができるのは、商人が生まれる以前の市場の姿であり、
そして、彼らの主要な発明物である本来的な意味での
貨幣が生まれる以前の市場の姿である。
つまり、契約とか売買とかが近代的とも言える諸形態
(セム的形態、古代ギリシャ的形態、ヘレニズム的形態、ローマ的形態)
をとるようになる以前に、
そして、品位検定を施された貨幣が使用されるようになる以前に、
市場がどのように機能していたかということである

・結局のところそうして行き着く先は、
古くからあるけれども、つねに新しいさまざまな問いを、
新しいかたちのもとで再び提起することになるにすぎないのである

・お互いに義務を負い、交換をおこない、契約を交わすのは、個人ではなく集団である

・どちらかと言えば自発的なかたちでおこなわれるのだが、
それにもかかわらずそれは、実際のところはまったく義務によってなされている。
この義務を果たしそこなえば、私的な戦争もしくは公的な戦争となったほどである



第1章 贈り物を交換すること、および、贈り物に対してお返しをする義務(ポリネシア)


第1章と第2章では、
ポリネシア・メラネシアおよび北アメリカの民族における
贈与のあり方が示されている。

贈与の代表的な事例としての、クラとポトラッチ
その動機としてのマナとハウといった
『贈与論』の中心である民族誌の部分

人と人、集団と集団の結びつきについても
名誉や威信の表現についても
自然から物へと転移する霊についても
世代を貫く祖先の魂についても
喜捨や施しについても
縦にも横にも、あの世にもこの世にも
隣村にも、海の向こうにも
貨幣経済とは違う生活全体を覆うものとして
贈与の糸は張り巡らされている。


本文では、以下のように詳しく記される

1 全体的給付、女の財―対―男の財(サモア)

・一つの要素は、富によって授けられる名誉、威信、「マナ(mana)」である。
もう一つの要素は、こうして贈られた物に対してお返しをするという絶対的な義務である。

・子どもの家族から子どもを受け取った相手の家族へと流れ続けてゆくための回路

・かつては、所有財の交換や、結婚や、特別の儀礼的な機会において、
これが貨幣の役割を果たすもののように使われていた←パンダヌスで編んだゴザ

・それらはもっぱら財物であり、護符であり、紋章であり、ゴザや聖像であり、
場合によっては伝承や礼拝や呪術儀礼であることさえある。
こうしてここで、護符としての所有財という観念に行き合うのである←トンガ(tonga)という観念


2 与えられた物の霊(マオリ)

・受け取った者を滅ぼしてしまえ、という祈りかけがなされている。
つまり、相手が法的なしきたりを遵守しない場合、
とりわけ、お返しをする義務を遵守しない場合には、
タオンガは相手を滅ぼす力を内蔵しているということなのである

・それはハウ(hau)、つまり、さまざまな物の霊、とりわけ森の霊、および森に棲息する狩猟対象となる鳥獣の霊についてである

贈り物を受け取ったり、
交換したりすることにおいて義務が課されるのは、
受け取られた物に活性があるからである。
贈り手が手放してなお、それは贈り手の何ものかなのである。
その物を介して、贈り手は受益者に対して影響力をもつ。
それは、自分の所有物を盗まれた人がそれを盗んだ人に対し、その物を介して影響力をふるうのと同じである。
なぜならタオンガは、その森のハウ、その郷土のハウ、その土地のハウによって命を吹き込まれてからである。
それはまさしく、「現地生まれの(native)」ものなのだ。
それを手にした者には、それが誰であろうと、このハウがついてまわるのである

・ハウが自分の生まれた場所に帰りたがっているのだ。
ハウが、森やクランの聖所に、そしてもともとの所有者のところに、帰りたがっているのである。

・マオリの法体系において、法的な紐帯、すなわち、物を介して形成される紐帯が魂と魂との紐帯であること

・誰かから何かを受け取るということは、その人の霊的な本質のものか、
その人の魂の何ものかを受け取ることにほかならない

3 その他の主題。与える義務、受け取る義務


・与えるのを拒むこと、招待し忘れることは、受け取るのを拒むことと同様に、
戦いを宣するに等しいことである。
それは、連盟関係(アリアンス)と一体性(コミュニオン)を拒むことなのだ。
それからまた、与えるのは与えるよう強いられているからである。受け手が、
与え手に帰属するすべてのものに対して一種の所有権を有しているからである。
この所有関係は霊的な紐帯としてあらわされ、また考えられている


4 備考―人への贈り物と神々への贈り物

贈り物がなされるのは人に対してでありながら、
それが神々や自然の存在を念頭にしてなされるということ

・ポトラッチは、そこに立ち会い、それに参加する死者の魂にも、
人間がその名前を受け継いでいる死者の魂にも、作用をおよぼす。
その上さらに、ポトラッチは自然に対しても作用をおよぼすのである。
人間というのは「名前を継いだもの(name-sakes)」、
すなわち霊と同じ名前を受け継ぐものであるので、
人間どうしのあいだで贈り物を交換すれば、
その交換が死者の霊や神々や諸事物や動物や自然に働きかけて、
「人間に対して気前よく」するよう促すのである

・契約関係や経済関係にかかわるこうした儀礼が
人間と人間とのあいだでおこなわれるのはもちろんのこと、
その人間というのが仮面をかぶった霊の化身であり、
しばしばシャーマニズムと結びついていて、
自分が名前を受け継いだ霊に憑かれているような社会である

・それはまず死者の霊であり、神々であった。
実際のところ、この世にある物や財の真の所有者は彼らなのである

・ポトラッチで奴隷たちを殺したり、貴重な油脂を燃やしたり、銅製品を海に捨てたり、
果ては首長の家に火を放ちさえしたりするのは、
力と富と我欲のなさを誇示するためだけではないのだ。
それはまた、霊と神々に対する供犠でもあるのである。
霊や神々とはいっても、実際にはその化身である生きた人間と一体となった霊や神々である。
化身である人間は、その称号を受け継いで担っているのだし、その同盟者であり、
そのためのイニシエーションを受けた者だからである

・施しとは、贈与と富にまつわる倫理的な考えが生み出したものである同時に、
犠牲にまつわる考えが生みだしたものである。
そこにおいては気前のよさが義務づけられている。
というのも、度を越した幸福と富に酔い痴れる人があれば、
ネメシス(ギリシャ神話の神、奢りを罰する)が貧者と神々のかたきをとることになり、
そうした人々は幸福や富を捨て去らねばならなくなるからである。
ここにおいて、贈与にまつわる旧来の倫理が正義の原理となった
そして神々と霊は、余分な幸福や富とうち、
自分たちに与えられた分け前、つまり、実用に供することなく供犠されたその分け前が
貧者や子どもたちの役に立つことに同意するのである

・アラビア語のサダカ(sadaka)も、ヘブライ語のツェダカ(zedaqa)も、
そもそもの起源においては正義という意味しかなかった。それが施しの意味になったである。

・慈善・施しという教義が誕生した時期は、
ミシュナ期(2世紀末。ユダヤ教の律法が体系的に文書化)、
つまりエルサレムにおける「貧者」の勝利にまでさかのぼることができる。
それが、キリスト教とイスラームとともに世界中に広まったのだ。
ツェダカといことばの意味がかわったのは、この時代のことである。
というのは、このことばは「聖書」のなかでは施しという意味ではなかったからである


第2章 この体系の広がり。気前の良さ、名誉、貨幣


2 贈り物の交換の原理と理由と強度(メラネシア)

・同じ物が戻ってくる。同じ糸が貫く。

・海を越える遠征をおこない、貴重財や常用品をやりとりし、
食事や祝祭をふるまい、儀礼的サービスや性的サービスなど、
あらゆる種類のサービスを供与し、男たちや女たちが立ち動く←クラに関して

・実用的な物品をたんに経済的に交換することはギムワリ(gimwali)ということばで呼ばれるけれど、
クラ交易はこのギムワリとは念入りに区別されている

・大船団を率いて一大海洋遠征をおこなう「ウヴァラク(Uvalaku)」という形態のクラでは、
交換に供する物など何ももたず、ただ与えるだけの物ですら何ももたずに遠征に出発する

・こうした式次第の全体を通じて当事者が追い求めているのは、
気前のよさを示すことであり、何からも束縛を受けず自由であるさまを示すことであり、
何にも影響されず自律しているのを示すことであり、そしてまた、みずからの偉大さを示すことである。
そうであるにもかかわらず、結局のところそこに作用しているのは強制のメカニズムなのだ。
それは、物による強制のメカニズムとさえ言えるものなのである。

・一つは貝を成形し、磨きあげた腕輪で、ムワリ(mwali)という、
その所有者や、所有者の親族たちが、特別な機会に身につける物である。
もう一つは、赤いウミギクの真珠母をシナタケの熟達した職人が細工してつくった首飾りで、
ソウラヴァ(soulava)という。
こちらのほうは、女性が儀式の折りなどに身につけるものであるが、
例外的に、たとえば臨終の床などで、男性がみにつけることもある

贈り物を受け取ることで人が手にするのは、まさしく所有権(プロブリエテ)なのである。

・それは、所有権であるかつ占有権(ポセッション)、抵当に入れられる物でありかつ貸し出される物、
売られる物であり買われる物、さらに同時に、委託され、信託され、承継人にまで次々と継伝されてゆく物である

名前をもち、人格をもち、故事来歴をもち、そしてそれにまつわる波乱の物語さえもっている

・ヴァイグアを所有していれば、
「所有しているというただそれだけで、人は陽気になり、力づけられ、心和むものなのである」

・ヴァイグアは、死にゆく人にとって最高の安息となるのである

・腕輪と首飾りだけではないのだ。
財にしろ装飾品にしろ武器にしろ、ありとあらゆるもの、
クラ・パートナーの所有するすべてのものが、
人格的な魂に、とまでは言わずとも、何らかの情動に突き動かされるようになる

・社会学的に言うならば、表現されているのは、
ここでもまた、物と価値と契約と人の混ざり合いなのである

・みながそれぞれに樹立しようとしているクラ・パートナーとの共同関係は、
パートナーどうしのあいだにクラン仲間のようなつながりを生みだすからである

・こうしたさまざまなやりとりが続いているあいだじゅう、もてなしや食べ物の給付がなされ、
シナタケでは女性の提供もおこなわれていた

・そのすみずみにまで「浸透している」。
彼らの経済生活、部族生活・倫理生活は、恒常的な「与えることと受け取ること」なのである

フィジーの貨幣はタンヴア(tambua)という名称で、
石(「歯の母親」や装飾が付加されて仕上っている。
これらの石や装飾は、部族にとっての一種の「縁起物」であり、
護符であり、「幸運のお守り」なのである

・それは一大交易である。
彼らのもとでは、贈り物を与え、贈り物を返すことが、
はっきりと売買の体系にとってかわっているのである

・これらの法体系が
(そして、本論でのちに見るようにゲルマン法についても同じことが当てはまるのだが)
どのような難点につきあたったかと言えば、
それはこれらの法が、みずからの経済的な諸概念や法的な諸概念を抽象化し、
分類することができなかった、ということである

・自分たちどうしを対置させて考えなくてはならないということを理解する術を知らないし、
自分たちのさまざまな行為を区別することが必要であると理解する術も知らない

・この人たちは、売るという観念も、貸すという観念ももっていないのに、
にもかかわらず、売るとか貸すとかいうのと同じ機能を有した法的・経済的な諸々のやりとりをおこなっているのである

・人類のなかには、比較的豊かであり、勤勉であり、たくさんの余剰物をつくりだしていながら、
わたしたちに馴染みのあるものとは異なる形態のもとで、また異なる理由によって、大量の物品を交換する術を知っていた、
そして今でも知っている、人々がいるのだ


3 アメリカ北西部―名誉と信用―

・ポトラッチがそこで際立っているのは、次の二点においてにすぎない。
一つは、ポトラッチが暴力や誇示や敵対関係を生むことである。
もう一つは、法的な諸概念にある種の貧弱さが見られることである

・一つは信用の概念、つまりお返しまでに一定の期間を置くという観念であり、
もう一つは名誉の観念である←メラネシアやポリネシアとの比較

第一の目的はみずからの負債を弁済することである。
これは公の場において、大々的な儀式をもって、公正証書に残すかのように執りおこなわれる。
第二の目的は、みずからの労苦の成果物をここに投下し、
そうすることで自分自身のため、さらには自分の子どもたちのために、
そこから最大限の利得が引き出せるようにすることである

・(お返しがあるという)その確信の「保証」となっているのは贈られるその物に備わった能力であり、
また、贈られる物それ自体がこの「保証」なのであった

贈与は必然的に信用という観念をともなうのだ。
経済にかかわる法は、物々交換から売買へと進化したわけではないし、
売買にしても、その場での支払いから期間を置いた支払いへと進化したわけではない。
贈り物を与えること、そしてある一定の期間を置いてお返しをすること、
このシステムの上にこそ、
一方に物々交換が成立し
(もともとは時間の隔たりがあったのにもかかわらず、
その隔たりが省略されたり短縮されたりすることによって)、
他方に購買と販売(一定期間を置いた支払いによる販売も、その場での支払いによる販売も)、
および貸借が成立したのである

・呪術という観念と同様に、名誉という観念もこれらの諸文明に無縁ではない。
ポリネシアのマナにしてからが、各存在者の呪術能力だけでなく、
その存在の名誉をも象徴しているのであって、
この語の最良の訳語の一つが権威であり、富なのである

与える義務はポトラッチの本質である。
首長たるものは、ポトラッチを与えねばならない。
自分自身のためにも、息子のためにも、婿もしくは娘のためにも、
そして死者たちのためにも。


・自分が霊と富に恵まれているということ、自分は富によって憑依=所有され(ポゼテ)
かつ自分も富を対象物として所有=憑依している(ポゼード)ということを、
その首長みずからが証明することによってを措いてない←首長の位階の維持に関して

・誰であれ招かなくてはならない。招待し忘れた人があれば、致命的な結果となる。
これは、ヨーロッパの民間伝承における主要なモチーフ、
すなわち、洗礼式や結婚式への招待から漏れた意地悪な妖精のモチーフでもある

財の分配であるポトラッチは「認知=識別=承認(ルコネサンス)」という根源的な行為

お返しをする義務は、ポトラッチそのものである

・お返しにどのくらいの利率がつくかと言えば、一般的には一年で30%から100%である
→首長から臣民へ御祝に1枚の毛布。臣民から首長へ次の御祝の機会に2枚の毛布。
首長は別の首長とポトラッチ。そこで得た財を再び臣民へ

・お返しをする義務を果たさなかった場合の制裁は、
債務奴隷にするということ ・このような貴重財の一つひとつ、
富をあらわすこれらの表徴の一つひとつは、トロブリアンド諸島においてと同じように、
それぞれの個別性、名前、特質、力を有している。
アワビの大貝。その貝で覆われた楯や、それで飾られたベルトや毛布。
貝飾りのないただの毛布でも、毛布自体に紋章が入り、
顔や目や、動物や人間の形象が織り込まれたり、
そうした刺繍が施されたりしているもの。
家屋にしても梁にしても、装飾を施された内装にしても、それらは生き物(エートル)なのだ

・儀式の場での食事において用いられる皿や匙は、
クランのトーテムや位階のトーテムで装飾されたり、
それらが彫り込まれたり、それらの紋章が施されたりするが、
こうした皿も匙も、魂をもった物である。
かつて霊は祖先に、汲めども尽きず物を生み出すさまざまな道具、食料を生み出す道具を与えた。
皿も匙もそれを今に再現しており、それ自体が霊
であると考えられている

・クランの首長の家族に帰属している主要な銅製品は、
それぞれみな名前をもっており、それぞれに固有の個別性をもっており、
固有の価値をもっている

銅製品は生きているのであり、自律的にふるまうのであり、他の銅製品を引き寄せるのである

霊の力の源泉は富であり、逆に富の力の源泉は霊であって、
一方の力の源泉をもう一方と区別することは不可能である。

銅は話をするし、不平ももらす。
銅自身が、自分をほかの人に与えるようにとか、破壊するようにと要求するのだ。
銅はまた、何枚もの毛布でおおって暖かくしておく。
それは首長を埋葬するときに、首長があの世で分配できるようにと、
何枚もの毛布の下に首長を埋めるのと同様である

・結局のところこれらすべての物は、それを使用することと一体化しており、
そしてまた、それを使用して得られた物とも一体化しているのである

・人が物を与え、物を返すのは、
そこにおいて人が互いに「敬意」を与え合い、「敬意」を返し合うからである。
今でも言うとおり、「挨拶」を掛け合い、返し合うからである。
けれどもそれはまた、何かを与えることにおいて、人が自分自身を与えているからである。
そして、人が自分自身を与えるのは、
人が自分自身を(自分という人を、そしてまた自分の財を)
他の人々に「負っている」からなのである


・これらの諸社会において物が人の手を経巡る流れが、さまざまな権利や人が移動する流れにほかならない

・クランからクランへ、家族から家族へという「全体的給付」の段階はすでに超えたにもかかわらず、
まだ純粋な意味での個人間の契約には到達しておらず、お金が流通する市場や、本来的な意味での売買や、
そしてとりわけ、品位検定を施された貨幣で価値をあらわすという観念には到達していない諸社会がある。
贈与=交換というこの原理は、こうした段階の諸社会の原理であったに違いない


第3章 こうした諸原理の古代法および古代経済における残存

第3章では、歴史をさかのぼり、
古代の法において
贈与がどのようにとらえられていたかが述べられる。
近代以降の社会では
人と物を分けて考えるのが当たり前であるが、
古代世界ではそうではなかった。
メラネシアやポリネシアと同じように
人(集団)と物は一体であった。
そして贈与は気高い義務でもあり世界を回す原理でもあった。
今でも、その頃の名残は多く残されている



本文では、以下のように詳しく記される

わたしたちが暮らしている社会というのは、
物に関する諸法と人に関する諸法とをはっきりと区別する社会である。
人と物とをはっきり区別する社会である


・わたしたちの文明は、セム文明、ギリシャ文明、ローマ文明の昔から、
債務や有償給付と、贈与とをはっきりと弁別しているけれども、
このようにいろいろと弁別するというのは、大文明の法システムにおいても比較的新しいことではないだろうか


1 人の法と物の法(非常に古拙なローマ法)

・それらは物なのだ。それも、それ自体として魂を吹き込まれた物なのだ。
何よりもそれは、古代において相互的に負った義務としてなされていた贈与が、
いまだにその痕跡をとどめている、その遺制なのである←担保とされるものの意味について

・古代へ遡れば遡るほど、ファミリアという語が
そのファミリアの一部をなすレス(物)をも意味として指し示すようになることで、
もっとも古くにはこの語が家族の食糧や諸々の生活手段をも指すほどであった。

・すなわちそれは「家(メゾン)」(イタリアやフランスでいまだに言うように)に恒常的に存在し、
それを本質的になりたたせている財と、そこを通過するだけの一過性の財との区別である。
一過性の財とは、食糧や遠くの牧草地の家畜群、金属やお金であって、
いまだ家父権の従属下にある息子でさえ、
結局それらについては取引を商うことができたのであった

・「受領者(アッキピエンス)」の手中にありながらも、
そのものは依然として、部分的に、また一時的に、
はじめの所有者の「家族」のものであり続けている

物は、それ自体のうちに「永遠の所有権(aeterna auctoritas)」を蔵しているのだ。
この力は、その物が盗まれたときにはいつでもあらわとなるのである。

物をもっているという、ただそれだけのことだけで、
物を受領した人(アッキビエンス)はそれを引き渡した人に対して
不安定な状態に身を置くことになるわけなのだ


支払いがおこなわれるまで自分自身が売られている状態にあることをも認める

・もっと未開の法においては、贈与があり、次いでお返しの贈与があった。
それと同様に、古いローマ法においても、売却があり、次いで支払いがある

・まさしく ローマ人と、そしてギリシャ人とが、
おそらくは北部および西部のセム語系の人々に続いて、
対人関係にかかわる法と対物関係にかかわる法との区分を創案したのだし、
贈与や交換から売却を区別したのだし、倫理的な義務と契約とを切り離したのだし、
そして何よりも、儀式的関係と利害関係とのあいだには違いがあることに思いいたったからである


・真の確信、偉大で称賛に値する革新によって、
もはや時代に合わなくなった倫理段階を乗り越え、
贈与経済を乗り越えて先に進んだのはローマ人とギリシャ人なのだ。

・贈与経済というのは、あまりにも運任せで安定性がなく、あまりにも高くついて無駄が多いから。
贈与経済とというのは、人対人のさまざまな思惑で満ち満ちていて、市場・商業・生産の発達とは両立しえず、
つまるところ当時にあっては反経済的となっていたから。


2 古典ヒンドゥー法

・バラモンは宗教的な祭式を執行することをもってお返しとする

『マハーバーラタ』とは、ある巨大なポトラッチにまつわるお話にほかならない

物を与えると、与えられた物はこの世でもあの世でも、
それ自身に対する返報を生み出すことになる。

この世では、与えられた物が同じ物を自動的に生じさせて、
与え手に対して返報とする。
物はそのままなくなってしまうのではなく、
それ自身を再び生みだすのである。あの世にゆくと、
やはり同じ物がそこにも増えて待ち受けている。
食べ物を与えるとする。
その食べ物は、この世では食べ物として与え手へと戻ってくることになる。
けれど、あの世に行っても、同じ食べ物が同じ人のものとなる。
さらには、その人が生れ変る段階ごとに、同じ食べ物がその人のものとなるのである

・法と経済にまつわるこうした一大神学理論が、
無限に続く見事な詩行のなかで展開され、無数の韻文の章句のなかで展開されている。
法規範も叙事詩も、この点では尽きるところがないのである

土地にせよ食糧にせよ、人が贈り物として与える物はすべて人格化されている。
土地も食糧も生き物であって、対話を交わす相手となり、契約に参加する当事者となる。


・わたしを受け取ってください(受取主よ)、
わたしを与えてください(与え手よ)、
わたしを与えれば、わたしを改めて得ることになるでしょう。

分け与えられること、これは食べ物に本来的に備わった性質なのだ。
他人に食べ物を分け与えないということは「食べ物の精髄(エッセンス)を殺す」ことであり、
自分に対しても他者に対しても、その食べ物を破壊することなのだ


吝嗇たることは、法が定める円環を途絶することである。
それは、一つの功徳や一つの食べ物から次の功徳や次の食べ物が再生する、
永遠に続く円環を途絶してしまうことなのである


・バラモンも度しがたいほど気位が高い。
まず、バラモンは市場と一切かかわりをもつことを拒絶する。
それだけでなく、市場に由来するものは何一つ受け取ってはならない

・神格のなかの神格である以上、バラモンは王よりも上位にあるのだし、
することと言えばただ「取る」ことだけであって、
それ以外のことをしようものなら、
神格のなかの神格にふさわしからぬふるまいをすることになってしまう。
その一方で、王の側から見るならば、何を与えるかというということと同じくらい重要なのが、
どのように与えるかという与え方の問題であるのだ

贈り物というのは、したがって、与えなくてはならないものであり、
受け取らなくてはならないものであり、しかもそうでありながら、もらうと危険なものなのである


すべてが作法にしたがっているのだ。市場とは違うのである。

財物の移転によって与え手と受け手とを縛り合う関係が生成する


3 ゲルマン法(担保と贈り物)

・古い時代にあっては、ゲルマン文明もポトラッチの一大システムを極度に発達させていた

コミュニケーションをはかり、相互に扶助をなし、相互に連盟を結ぶときには、
贈与や婚姻というかたちでそうしたのである。
担保や人質によって、饗宴によって、贈り物によって、
それもできるだけ大がかりなものによって、そうしたのである


・ゲルマン人のあらゆる類の契約において、担保が必要とされるということである。
フランス語のガージュ(担保・gage)という語それ自体がここに由来している

・実際のところ、このようにして相手方に渡される物には、
それを与える者の個別性が十全なかたちで充当されているのである。
それが今や相手の手のうちにある。
このことで、契約当事者は契約を履行せずにはいられなくなるのだ

渡し手は、担保を入れて賭けている状態から
みずからが開放されないかぎり、劣位にとどまり続ける


・受け手のほうはそれを地面の上で受け取るか、
もしくは胸元で(inlaisum)受け取り、手で受け取ることはない。
儀式はその全体において、挑戦と警戒の形式を備えており、
挑戦と警戒の双方を表現している

・贈与が不幸をもたらし、贈り物や財が毒に転化するというこのテーマは、
ゲルマンの伝承において基本的なものである。
ラインの黄金はそれを征服した者に破滅をもたらし、
ハーゲンの盃はそこから酒を飲む勇者を死に導くのだから。


中国法

・今日にあってもなお、人が自分の財物のなにか一つを売却すると、
それが現に自分の手を離れてどこかに行ってしまうような動産であっても、
その人は生涯を通じ、それを購入した人に対して、
「自分の財物を嘆き悼む」という一種の権利を保持し続けるのだ

物の移転によって、契約当事者たちは永久に相互依存の関係に立つとかんがえられている


第4章 結論

この結論では
モースの語りは次第に熱を帯びて
研究者としての枠を逸脱してしまう勢いなのだが
その情熱がこの著作の魅力でもある。
資本主義経済の進展によってあらわれる
格差や独占、そしてそこに起きる大きな対立
そんな危うい世界へ向けた
拳を振り上げんばかりの提言である


以下、本文より

1 倫理に関する結論

・わたしたちの倫理にしても、
そして、わたしたちの生活そのものにしてからが、
そのきわめて大きな部分が以上に見たのと同じ雰囲気、
すなわち、贈与と義務と自由とが混ざり合った雰囲気のなかに、
相変わらずとどまっている。
何もかもが売り買いという観点だけで分類されるまでにはまだなっていないわけで、
これは幸いである。
物には依然として情緒的な価値が備わっているのであって、
貨幣価値に換算される価値だけが備わっているわけではないのだ。


・招待というのは、されればお返しをしなくてはならないものである。
それは「礼」に対して「礼」を返すのと同じである。
ここに見てとることができるものこそ、古くから受け継がれてきた基盤、
すなわちかつての貴人たちのポトラッチが、今もその名残をのぞかせるさまなのだ。
それと同時にまた、人間活動の基本をなすモチーフがここにも姿を見せているのが分かる。
それが、同性の人どうしの競合関係であり、
人間にとって「基底的な他者支配への志向(アンペリアリスム・フォンシエ)」である。
それは社会的存在としての人間の基底である同時に、
動物的存在・心理的存在としての人間の基底でもあって、それがここにあらわれている。
わたしたちの社会生活という一種独特なこの生にあっては、
「借りを返さないままでいる(レステ・アン・レスト)」というのは、
こうした表現が今なお使われていることから分かるように、許容されえないことなのだ。

受け取った以上のものを返さなくてはならない。

・こうした機会には「お大尽様(グラン・セニュール)」でなくてはならないのである。
わたしたちのなかには、昔からずっと一貫してこのようにふるまい続け、
お客をもてなすとか、祭宴をおこなうとか・「ご祝儀」をふるまうとかいう段になると、
見境なくお金を使う人々も一部にあると言うことさえできる

・フランスにはこのほかにも沢山の慣行があって、
物が売却されたとしたら、その物を売り主から切り離さなくてはならないということが強調されているのだ。
たとえば、売られた物を叩くとか、売り物の羊を鞭打つとか、等々

・今日にあっては、法のある一部分、
すなわち産業および商業に従事する人々にかかわる法が丸ごと、倫理観と葛藤をきたしていると。

・そうした諸々の先行観念が何から生まれるかと言えば、
それは自分が生産した物を追い求めようとする堅い意思からである。
そしてまた、自分は利益に与らないのに、
自分の労働だけは先々へ転売されてゆくことへの強い不満からなのである

・わたしたちの体制がもつローマ的・サクソン的な冷酷無情さに対し、
このような抵抗が生じるのはまったくもって健全であるし、またその抵抗力も強い

・労働はみずからの生命と労力を提供してきたのであるけれど、
それは雇用主に対してばかりでなく、集団全体に対してもである。

贈与、ならびに贈与における自由と義務というテーマ、
気前のよさというテーマ、そして贈り物をすることの利得というテーマ、
これらがわたしたちのところに再び戻りつつあるのだ。

影響力をもちながらも、あまりに長いあいだ忘れられていたモチーフが、
再び姿をあらわすかのようである。

・サービスを売って対価を得て、それでおしまいという粗暴な法に、
それとは別の法がいくつか付加されつつあると言うだけでは十分ではないのだ。
必要なのは、こうした変革がよいものだと述べること、これなのである

・わたしたちは「貴人の消費」という習いに再び戻りつつある。
また、戻らなくてはならない。アングロ=サクソン圏でのように、
そしてまた現代の他の諸社会(未開社会も、高度な文明化を遂げた社会でも)でのように、
富者は昔に立ち返り、自分が同胞にとって一種の財務官であると思うようにならなくてはいけない

アルカイックなものに、基礎的な原理に、部分的にであれ再び戻ることができる。
また、戻らなくてはならない。
そうすればわたしたちも、生と行動を導くある種の動機を再び見いだすことができるだろう。

それは多くの社会や階層が今日においてもなお有している動機である。
それがすなわち、公の場で物を与える喜びであり、
美的なものへ気前よく出費する喜びであり、
客人を歓待し、私的・公的な祭宴を催す喜びなのである

必要なのは、市民が自分のことを考え、さまざまな下位レベルの集団のことを考え、
そして社会全体のことを考え、そうしながら行動することなのだ。
この倫理は永遠である


どんな時代にあっても活動しているのは、
そしてどんな場所にあっても活動してきたのは、人だからである。社会だからである。
精神的存在としての、生身の存在としての人間の感情だからである


・わたしが全体的給付の(クラン間でおこなわれる全体的給付の)体系と呼ぶことを提唱している体系がある。
この体系においては、 人々と集団があらゆるものを交換し合う。
この全体的給付の体系は、わたしたちが現に確認しうるかぎりで、
そしてまたわたしたちが想像しうるかぎりで、もっとも古い経済、法的体系をなしている。

これが基礎となって、その下地の上に交換=贈与の倫理が浮き彫りなってきたのである

・わたしたちの生活原理としても、だからこの行動原理を取り入れようではないか。
自分の外に出ること。つまり与えること。
それも、みずから進んでそうするとともに、義務としてそうすること。
そうすれば過つ恐れはない。


・コ・マル・カイ・アトゥ(Ko Maru kai atu)
コ・マル・カイ・マイ(Ko Mar kai mai)
カ・ンゴヘ・ンゴ(Ka ngohe ngohe)
「取るとの同じように与えなさい。そうすれば万事うまく運ぶでしょう」
(マオリのことわざ)


2 経済社会学ならびに政治経済学上の結論

・デュルケームは経済的価値という観念が
宗教的な起源を有することについて問いを提起したけれども、
この観点からすると、わたしはこのデュルケームの問いに、
すでにして答えを与えていることになる

すでにしてそれ自体が反対給付なのだ。つまりそれらは、
先だって供与されたサービスや物に支払いするためになされている。

・神秘的でもあり、また実際的でもあるこの力、
クランどうしを接合させもすれば、
同時にクランとクランを相互的な交換へと仕向けもするこの力

実際には個人にしろ集団にしろ、
通常の場合にはそれを拒否する権利もなければ、
それを拒否することで何の利得にもならないのだった。


・すでにヴァイグアは貨幣の表徴としての役割も果たすようになっているため、
新たにヴァイグアを所有できるためには、
今あるヴァイグアを商品やサービスに転化させて与えるのがよいということになる。
転化した商品やサービスが、やがて今度は貨幣へと再転化することになるからである。
まったくもってトロブリアンドやツィムアンの首長は、
程度に大きな差があるとはいえ、資本家と同じやり方をしているように思われる。
なぜなら資本家というのは、時期が有利と見れば自分の手持ちの資金を手放す術を心得ており、
それによってのちにみずからの流動資産を新たに構成するのだから。

富というのはもっぱら他人を動かすための手段である

・古代の倫理意識がもっとも享楽主義的(エピキュリアン)であった時代には、
人々が追い求めたのは善と快楽であって、物質的な功利性ではなかった。
合理主義と営利主義が勝利を収めてはじめて、
利潤という観念や個人という観念が通用するようになり、
また生活原理の高みにまで達するようになったのである
←マンデヴィル「蜂の寓話」の頃←利己心の追求が結果として全体を豊かにする

ホモ・エコノミクス(homo oeconomicus)とは、
わたしたちがすでに通り過ぎた地点ではなく、
わたしたちの前に控える地点なのだ。倫理と義務の人がそうであるように。
また、科学と理性の人もそうであるように。

人間はじつに長いあいだホモ・エコノミクスなどではなかった。
人間が機械になったのは、それも、計算機なぞという厄介なものを備えた機械になったのは、
ごく最近のことなのだ

・わたしの考えでは、 最良の経済の方法が見つかるとすれば、
それは個人個人がみずからの欲求を計算することのなかに見つかるものではない。


・あなたがたが神に惜しむことなく貸付をするなら、
神はあなたがたに倍のお返しで報いたまい、あなたがたをお赦しになるだろう。
神は感謝に篤く、寛大さに満ちておられるからである。(コーラン第64章174節)

・喜捨とあるところを、協力という概念に置き換えてみればよい


3 一般社会学ならびに倫理上の結論

・これらの現象はすべて、
法的現象であると同時に経済的現象であり、
宗教的現象であり、
さらにはまた審美的要素をもつ現象であり、
社会形態にかかわる現象であり、等々である

たとえば踊りがあって、人々は交互にそれを踊る。
歌があり儀礼的な誇示があって、それはありとあらゆる種類におよぶ。
演劇があって、遊動する集団から集団へ、協同者から協同者へと、
順繰りにおこなわれる。
さまざまな種類の物品があって、
人々はそれらを作り、使い、飾り立て、磨きあげ、集め、情熱をもって手から手へと渡す。
受け取っては歓喜し、見せびらかしては首尾を果たす。
饗宴があって、すべての人がそれに参加する。
食べ物であれ物品であれサービスであれ、
あるいはトリンギットが言うように「敬意」であってさえ、
すべては審美的な感情を湧き立たせるものなのだ


・冬におこなわれるクワキウトルのポトラッチの場合であれば、
冬季のあいだは集団の凝集力が高まるわけだし、メラネシア人の海洋遠征であれば、
遠征中の数週間は同じように集団が凝集するわけだけれども、
そうした凝集の期間を超えて集団が存続することがあるのである。
その一方、 道が必要である。粗造りの小路であろうとも。海が必要である。
湖が必要である。そして、それらを通じて、平和裡に通行できることが必要である。
部族内の連盟関係(アリアンス)が必要であり、部族間の、さらには民族間の連盟関係が必要である。
すなわち、「コンメルキウム(commercium 通商・取引・交際・交通)」と
「コヌビウム(conubium 通婚・縁組)」とが必要なのである


・それらを分解し、解体して、
さまざまな法規範やら神話やら価値やら価格やらに分けるなどということもなかった。
全体を丸ごと考察すること、
これによって、
本質的なことがら、全体の動き、生き生きとした様相を把捉することができた
のであり、
社会が、そしてまた人間が、自分自身について、
また他者に対して自分自身が占める位置について、
情緒的に意識化する束の間のときを把捉することができたのである。

わたしたちが目にするのはおびただしい人間たちなのだ。それがすなわち動的な力なのであり、
そういう人間たちが自分たちの環境のなかを、
そしてまた自分たちの感情のなかを、浮動しているのである。


・具体的なもの(コンクレ)を研究するということは、
全的なもの(コンプレ)を研究するということである

そもそも、その人間というもの自体が全的で複合的な存在者なのである

・わたしたちの民俗倫理のあまたの慣習においてさえ、
中間的なものなどない。完全に自らを相手にゆだねる(ス・コンフィエ)か、
さもなければ完全に相手を拒絶する(ス・デフィエ)か、そのいずれかなのだ。
武器を措いて呪術をあきらめるか、さもなければすべてを与えるか。
しかも、 すべてを与えるというのは、その場かぎりのもてなしを施すことから、
娘や財を与えることにまでわたる。
このような精神状態においてこそ、
人間たちは他者を拒むようなとりすました態度を捨て去ったのであり、
与えること、そしてお返しをすることを、
みずからに引き受けることができるようになったのである


交わりをもつためには、まずはじめに槍を下に置くことができなくてはならなかった。
そのときはじめて、財や人は交換されるようになった


互いに殺し合うことなく、
けれども対峙し合うことができるようになった。互いに相手の犠牲となることなく、
けれども与え合うことができるようになった。
そしてまた近い将来、文明世界と言われるわたしたちの世界においても、
諸階級や諸国民、そしてまた諸個人は、そうできなくてはならない。

ここにこそ、クラン・部族・民族の英知と連帯の普遍の秘訣の、その一端があるのである

何が善で何が幸福かをはるか遠くまで探しに行く必要はない。
平和として定位されたものがある。
労働として(あるときには集団でおこなう労働として、あるときは一人でおこなう労働として)
適切に秩序づけられたものがある。
富として蓄積され、次いで再分配されたものがある。善も幸福も、そこにあるのだ



 

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