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『親族の基本構造』
C.レヴィ=ストロース 著 福井和美 訳
2000年刊 青弓社


 

「訳者あとがき」や索引まで入れると900ページを越える、なかなかたいそうな本です。
装丁もしっかりとしていて、価格は14000円+税もします。
で、何が書いてあるかというと
<すべては交換である。それも「女」の交換である。>
という
ただそれだけなのですが
そのことを言い切るために
世界中に数限りなく普遍的に存在するインセストの禁忌を調べ尽くした
ので
こんなに長くなってしまいました
ということです。
その一点に還元するためには
それ以外のさまざまな説をひっくり返さなければならない
ので
数学者を呼んできて
ムルンギン型体系の婚姻法則はこの代数じゃ、まいったか!
という華麗で強靭な力技も使うことになりました
(と言われてもよくはわからないんですけどね)
ということです。

逆にいえば
世界の最大の禁忌の体系群を
バラバラにしながら
そのすべて飲み込んでしまう大きな渦の中心
何もないゼロの地点を発見した
とも言えます。

モースは贈与を<全体的社会的現象>と述べましたが、
レヴィ=ストロースはその全体を
さらにまとめて
たったひとつのことにしてしましました。
とても過激な展開のようですが
一事が万事なら万事は一事
ということなのかもしれません。

それにしても、
このただ一点の禁忌に向かう思考の傾斜には、
極めて特別なものを感じてしまいます。
個人的なものと、それに連なりながら、それを突き抜けた力。
それに貫かれた一点。
その思考の傾斜の終わりに現れる「結論」には
こうあります

「人間の思考を知らぬ間にかたどるその力は、
この夢に描かれる行為がいつどこでも文化によって押しとどめられて
一度も現実になされたことがないとの、まさにその事実に根ざす。」
「無秩序への、むしろ反秩序への欲望の、それは絶えざる表現なのである。
祝祭が社会生活の乱脈さを模擬するのは、社会生活がかつてそうであったからでなく、
一度もそうなったことがなく、これからもけっしてそうなりえないからなのだ。」
「いずれの神話も人が自分とのあいだでだけ生きていける甘美な世界、
社会的人間には永遠に与えられることのないその幸福感を、
過去か未来かの違いはあれ、等しくたどり着けない果てへと送り返しているのである。」

レヴィ=ストロース個人が見ようとした文化の果ての果てにある<夢>が、
人類と人類学の見てきた長い長い<夢>と重なり合い
始まりでもあり終わりでもある場所に
この本は生まれたのではないかという気がします。
そして、それは後の『神話論理』の始まりを予感させるものでもあります。

 

以下、本文より

序論

第1章 自然と文化
・恒常性と規則性は、じつは自然のなかにも文化のなかにもあるが、
ただ文化の内部で恒常性と規則性が現れる領域は、
自然ではそれがごく微弱にしか現れない領域であり、この逆もまた成り立つ。
言うところの領域とは、自然の場合は生物学的遺伝、文化の場合は外在的伝統である。
・あらゆる社会規則のなかでただこの規則だけが、同時に普遍性という性格をも有する。
インセスト禁忌が規則をなすことはほとんど論証を要しない
インセスト禁忌は、性向であり本能であるという普遍性も、法であり制度であるという強制的性格も併せ持つのである
・我々の社会においてすら、聖なる事物にまといつく畏怖の後光を、これほどまでに保ってきた社会的命令はまずない

第2章 インセスト問題
・旧石器時代の末期以降、人間は同系交配という繁殖手段を利用してきており、
それが栽培された植物種や家畜化された動物種をいよいよ完全なものに変えてきた。
・血族婚の規制は、無視しうるほどの遺伝的影響しか及ぼしえない
抑止せずともなされる心配のないものを、わざわざ抑止しなければならぬ理由はない
・社会が自殺を悪と断じるのは、自殺が社会の利益を損なうと考えるからであって、
自殺がなにか生来の傾向を否定するからではない
・あらゆる社会に、あらゆる時期を通じて、
男女関係の規則が存在するのはいかなる深い原因が偏在するからなのか、ここにこそ問題の本質がある
インセスト禁忌は純粋に文化に根ざすのでも、純粋に自然に根ざすのでもない
また一部を自然から、一部は文化から借りてきた雑多な要素の混ぜ合わせでもない。
そのおかげで、またそれによって、とりわけそれにおいて
自然から文化への移行が達成される根本的手続き、これがインセスト禁忌なのである。
インセスト禁忌以前にまだ文化は与えられていない。
インセスト禁忌とともに、自然は、人間のもとに自然は至高の支配力として存在することをやめる。
インセスト禁忌とは自然が自己を乗り越えるプロセスである


第1部 限定交換

第1篇 交換の基礎

第3章 規則の世界
・自然と文化ではリズムの現れ方が違う。自然の領域の特徴は受け取ったものしか与えないことにある。
このことの永続性、連続性の表現が遺伝現象である。
文化の領域では逆に、個体はつねに与える以上のものを受け取ると同時に、受け取る以上のものを与える
・自然から文化への移行問題は、
いかにして累積プロセスが反復プロセスのなかに繰り込まれるかという問題に帰着する
・自然は配偶を命じはするが決定せず、文化は配偶を受け取るが早いか、まさにその方式を定めるのである
・規則であるとの事実がインセスト禁忌のまさに本質をなす
・文化の最大の役割は、集団が集団として存在するのを保証すること、
配偶にかぎらずすべての領域で偶然を組織化に置き換えることにある
・我々はこの単婚を流産した複婚形式と呼びたい
・じつにさまざまな理由から経済的、性的競争の先鋭化が起きる社会で複婚を制限するもの、
要するにそれが単婚にほかならない
・このような社会で婚姻は、要するに誰にとっても死活問題なのだ

第4章 内婚と外婚
・「嫁に出し尽くすか殺され尽くすか」(タイラー)
・禁止の積極的側面は組織化の端緒を開くことにある
・複数の女を所有することは首長という機能の見返りであると同時に、機能を行使するための道具でもあるのだ
・集団として集団にもたらすのである。
みずからの利益を図って成員共通の権利を棚上げしたのは、ほかならぬ集団自身であったのだから。
インセスト禁忌の論理的に言って第一の目的は、
家族の抱える女を「凍結する」ことにあるそれは女の割り当てや女の獲得競争を集団の内部で、
かつまた集団の統制のもとで―私的管理のもとではなく―おこなわせるためなのだ

・この側面こそが禁忌の原初的側面、禁忌全般に妥当する唯一の側面であることもまたわかる
・(似ている順序)原住民→ヤムイモ(原住民のように繁殖し、原住民を延命させる)→白人
・文化は概念としてはありとあらゆる収縮・膨張にさらされるが、
いずれにせよ、一般に「真の」内婚、文化の境界外で実施される婚姻の排除を表明しているにすぎない。
・この婚姻が、考えうるもっとも単純な互酬体系をもたらすからで、
実際、のちに明らかにしてみるように、交叉イトコ婚とは本質的に一つの交換体系のことなのである。
よそ者同士の結婚は一つの社会的進歩であり(なぜならより広範な集団を統合するのだから)、
それはまた、一つの冒険でもある

しかし配偶が交叉イトコに固定されるのは禁止クラスの除外のたんなる結果にすぎないこと
(ゆえに内婚がここではまさに外婚の一機能であって、その逆でないこと)をもっともよく示す証拠に、
要求されるイトコ間の親等と示す潜在的配偶者がいなくても混乱はいっさい生じず、
代わりにもっと遠い親族が配偶候補に立てられる。
・封建家族にとっての義務、家族間の縁組関係(婚姻連帯)を維持、拡大する義務が、外婚を招来するのである。
・抑止は義務と等価であり、権利放棄は権利請求への道を開くのである

第5章 互酬原理
・どちらのパートナーも互酬交換からいっさい真に物質的な利益を引き出すことがない、とホグビンは指摘する。
「事実、交換される贈り物が同じ性質ものである場合見られる」
・交換の繰り返しのなかで運ばれていくたくみなゲーム
 ・あらゆる社会層が一種聖なる情熱をもって熱中するクリスマスのプレゼント交換は、何百万もの個体を巻き込んだ巨大なポトラッチ
・集団は、「独りで飲み食いする」者をことさら厳しく裁く
 ・互いに無関心であるいう関係は、会食者の一方がその関係から脱しようと意を決するや、
もはやいままでとはまったく別様に結び直されずにすまない。
・しかしもっと大きな理由は、女が社会的価値の記号である前にまず自然的刺激剤であることで、
しかも女によって刺激される本能(性本能)は、唯一充足を遅らせることのできる本能である

・ゲルマン諸語の≪gift≫という語は、相変わらず「贈り物」および「婚約」の二重の意味をもつ。
同じくアラビア語のsadaqaは、寄進、花嫁代価、正義、税金のいずれをも意味する。
・略奪婚でさえ互酬規則に反しておらず、それは略奪というより、互酬規則を実行に移すための可能な手段の一つなのである。
交換とは平和的に解決された戦争であり、戦争とは不幸にして失敗した商取り引きの帰結である
互酬性の途切れることのないプロセス、
敵対から同盟へ、不安から信頼、恐れから友情へ移行を達成していくそのプロセスの終着、
それが花嫁交換にほかならない


第6章 双分組織
・双分体系が互酬性を生み出すのではなく、それはただ互酬性に具体的なかたちを与えるにすぎない。
・「インセストからもたらされる災いを避けるため、『オスの子ウシを縦に二つに裂く』儀式をとりおこない(略)こう宣言した。
二つの集団のあいだでなら結婚していいが、しかしどちらの集団も自集団のなかでの結婚をなしてはならぬ」(ヌエルの神話)
・双分原理そのものは互酬性の一様態にすぎない

第7章 「古代的」をめぐる錯覚
・双分組織の起源の問題は歴史研究や地理研究によって汲み尽くしえないこと、
双分組織を理科するには人間精神のいくつかの基礎構造を持ち出さねばならないこと
・(三つの心的構造)一つ目は<規則としての規則>への要求。
二つ目は、自他の対立を統合できるもっとも直接的な形式として考えられた互酬性の概念。
三つ目は<贈与>のもつ総合する性格で、
それは、二個体の合意のうえで一方から他方になされる価値の移転が彼らをパートナーに変え、
なおかつ移転された価値に新しい性質を付加することを言う。
・「平等ということが、これらすべての欲望とこれらすべての恐怖心とのあいだの矛盾から引き出される、最少公倍数である」
(スーザン・アイザックス)
このような心理的発達が可能なのは、S・アイザックスがじつの深く洞察したように、
所有欲が本能でないから、けっして(あるいはごくまれにしか)主体と対象の客観的関係にもとづいていないからである。
対象に価値を付与するのは「他者への関係」である。
なにかが欲しくてたまらなくなる理由は、誰かがそれを所有していることにのみある
分かちもつこと、「自分の番を待つ」ことを受け入れる能力は、互酬性への感覚が育まれるにつれて高まり、
この感覚のほうは、集団という事象の体験と、自己を他者に同一化させるよう働くより深層の機能とに由来する

・子供たちのあいだの愛情関係をかたちづくる、
もっとも広く共通したもっとも本源的な基盤の一つは、もらった贈り物に対する感謝の念である。
ただし子供たちは、
「贈り物という物証に対してそれほど愛情を感じるわけではない。
彼らにとってはもらうことがイコール愛情である。
彼らの愛情を左右するのは、何を与えるかでなく、むしろ与えるというそのことである。
与えること、もらうことは、子供たちにとってどちらも文字どおり愛情なのである
」(アイザックス)
・「与えることは受け取ることよりはるかに喜ばしい。
与えるだけの力があるとは、自分が必要なものに事欠いていないことなのだから
」(アイザックス)
・「社会本能」はまちがいなく個体史と心理学的起源をもち、
その心理学的起源は社会全体についての経験にだけでなく、
物理世界の及ぼす圧力にも深く根ざしていて、
まさにこの圧力が五歳未満の子供に熱烈な―実に積極的な―探究心を生じさせる。
・子供が心理学者や社会学者にとって特別の関心を引くのは、
個体心理と社会生活の二つの視点から見て子供が大人と異なるからでなく、
逆に似通っているからであり、またそのかぎりにおいてである。
・大人の思考と子供の思考はその構造よりむしろ広がりにおいて異なる
・大人の心的図式は、各人の属す文化と時代に応じて、さまざまに分岐していくが、
しかしいずれの心的図式も、それぞれの個別社会の有す資源よりも無限に豊かな、
ある普遍的資源をもとにつくりあげられるのである。
・集団の要請に応じた選択と除外の結果である大人の思考に比べ、
子供の思考は、要するに、一種の普遍的な基層をなす。
・発声能力と意味伝達は反比例の関係にある

第8章 縁組と出自
・人間の制度というものは二つの源泉からしか出てこない。
歴史的で不合理な起源からか、でなければ、熟慮された目的意識、
つまり立法者の計算からである。言い換えれば出来事からか意図からである。
・人間のつくった制度についての研究においても、同様の態度変更がなされはじめている。
制度もまた構造であり、構造の全体、すなわち構造の規制原理は部分よりも先に与えられることがある。
・両系体系では、孫息子は祖父の転生で祖父の社会的身分を再び身に帯びるがゆえに、交叉イトコ婚が必要になる。
つまり交叉イトコ婚は一世代を隔てて各人に元のクランとnatoro(父系帰属)を回復させると言うのである。
・殺人、儀礼的特権など、もともとは性質を異にしていた債権に対し、
女が弁済として代用されるとか、女の抹殺が復讐の代わりになる
・婚姻交換という企て全体の理由をなす互酬性を創設するための、これこそが唯一の手段
・もともと交換によって手に入れられた女たちが、再び交換に差し出されることがあるが、
これら贈答品、女たちは、なんらかの生得的性格にでなく、
構造内の任意の位置に由来する、他性のしるしさえあればいいのである。
・男が女を交換するのであって、その逆ではない
・婚姻の本質をなす全体的交換関係は、各人がなにかを負いなにかを受け取る一人の男と一人の女のあいだにでなく、
二つの男性集団のあいだに成立する。女はこの交換関係のなかに交換パートナーの一方としてでなく、
交換される物品の一つとして登場するのであって、このことは(交換される)娘の感情が考慮される場合でも
―しかも考慮されるのがふつうである―やはり真実である。
・大部分の人間社会で個人による奉仕の特徴をなすと見える欠如は、
婚姻の基礎をなす互酬的絆は男と女のあいだにでなく、
女を手段にして男と男のあいだに成り立ち、
女はそのための主要なきっかけにすぎないという普遍的事実の、その裏面にほかならない。
・女そのものは結局、彼女の属すリネージの象徴でしかない。

第9章 イトコ婚
・その本性からして互酬原理は、互いに異なるがまた互いに相補的でも二様の働き方をする。
可能配偶者集団を自動的に限定する、婚姻クラスをつくりだすことによって働くか、
もしくは好ましい配偶候補が除外される配偶候補かを事例ごとに判断させてくれる、
一つの関係ないし関係の集合を決定ことによって働くのである。
交叉イトコ婚のとりわけ興味深い点は、
この婚姻によって立てられる規定配偶者と禁忌配偶者との区別がさらに親族の一カテゴリー(イトコ)を、
そこに含まれる親族が生物学的近親度から見て厳密に互換可能であるにもかかわらず、(平行と交叉とに)二分することにある

・名称体系のたんなる変動から権利・義務体系全体の変換にまで及びうる影響力は、
大部分の社会で、直系から傍系へ移ったときの性別の異同と結びついている。
・いかなる男も、上位世代で姉妹ないし娘が失われているのだから、
女を請求する権利の行使対象となる集団からしか妻を受け取れず、
またいかなる兄弟(なしいかなる父親)も、上位世代で女が獲得されているのだから、
姉妹(ないし娘)を外部に返済する義務を負う。
交叉イトコ婚は究極的には次のことを表しているにすぎない。
婚姻については、与えることと受け取ることがつねになされなくてならないが、
ただし与える義務を負う側からしか受け取ることができず、また受け取る資格を有する側に与えなくてはならない

・いかなる権利取得も付帯義務を生じさせ、いかなる権利放棄も補償をもたらす
・AのBに対する関係はBのAに対する関係に等しい。
さらに、AのDに対する関係がBのCに対する関係に等しいなら、
CのDに対する関係はBのAに対する関係に等しくなければならない。
これはすなわち、姉妹交換の定式と交叉イトコ婚の定式である。



 
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第10章 婚姻交換
<私>は自分の姪の母を姉妹として譲与したので彼女の娘に対する権利をもつが、
しかし自分の娘の母を妻として獲得したので自分の娘を譲与しなくてならない

・先行世代から主体の世代に移っても変わらないこの記号の布置関係は、
主体の世代から甥の世代に移っても明らかにそのまま保たれ、ただ記号の新たな反転が起きるにすぎない。

第2編 オーストラリア

第11章 規範的体系
・集団を実際に機能的にいくつかの交換単位対に分割し、
かつ任意の対X-Yにおいて交換関係が互酬的であるような体系、
すなわち男Xが女Yと結婚するなら、男Yはつねに女Xと結婚できなくてならない体系を、
我々はすべて限定交換の名のもとに一括する。
・下位セクション組織の広がる地域の外周部で生活する民族は、
下位セクションをもたないこと、その仕組みが理解できないことに劣等感をもつ。
自分たちはwadzi「正しくないやり方で」結婚をおこなっているとの考えが原住民の精神に根づいてしまうと、
彼らには、下位セクションとそれに応じた婚姻規則およびトーテミズム形式とを備えた壮大な装置のほうが、
自分たちの伝統的体系よりもなんとなく優れているかに見えてくる。

第12章 ムルンギン型体系
・どちらの前提も「縦の」とでも言える系譜を用いれば、
つまり「地縁集団」間の縁組経路の具体例をいくつか再構成すれば、たやすく経験的に検証されるのである。

第13章 調和体制と非調和体制

第14章 第1部補遺 (アンドレ・ヴェイユによる代数学による説明)

 
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 第2部 全面交換

第1篇 単純な全面交換定式

第15章 妻を与える人々

第16章 交換と購買
・まず最初に驚かされるのは、カチン型婚姻規則の単純さである。
見るかぎり、母の兄弟の娘との先行結合さえ明示しておけば、
軽やかに輪舞(ロンド)がかたちづくられ、
この輪に大きな社会単位も比較的小さな社会単位も自動的に溶け込んで、
なおかつそれら社会単位は、ある程度限定された範囲でなら、
全体の強調を乱すことなく即興的な動きをなすことができ、
たとえば封建家族が三元周期をつくりだしても、
その周期はすべて集団の関与する五元周期のなかにじつにスムーズに組み込まれる。
・カチンの婚儀でも好ましい親等は絶対に動かせない一方、
それと対照をなすかたちで敬遠とかたくなな拒否とが見られる。
・花嫁代価は性的権利を充当するというよりむしろ
(カチンは婚前交渉について多大の自由を許す体制を敷いており、
性的権利を左右するのはもっぱら選好親等だけである)、
女と彼女が生む子供が決定的に失われることにかかわっている。
・「婚姻とは社会的に調整された敵対行為である」(ゴードンブラウン)
・選好結合規則の単純性と給付体系の複雑性が一つ、
もう一つは指示語の貧しさと指称語の豊かさのあいだの対立
全面取引は先物取引体系を創設する
・集団的投機に発する全面交換は多様な手練手管の余地を開き、
保証への欲望の引き金になるので、
パートナーたちによる個別的・私的な投機を招く。
全面交換は賭けの結果であって、なおかつ賭けを引き起こしもする。
リスクに対してはじつに二重に備えることができるからである。
一つは量的に、つまり人々の参加する交換周期の数を増やすことによって、
もう一つは質的に、つまり担保を蓄えること、
すなわち支給者リネージの女をできるだけ多く占有することによって。
したがって、全面交換の必然的帰結として婚姻範囲の拡大と複婚が現れる
(これは全面交換だけに特徴的なことではないが)。
・全面交換は、封建的傾向をごく漠然とであれ帯びた社会に、とりわけしっくり馴染むように思われる
全面交換は平等を前提にして、なおかつ不平等の源泉でもある
・ところが、体系が投機性を帯びていること、周期が拡大すること、
進取の気性に富むいくつかのリネージが利己のための二次的周期を形成すること、
最後に特定の縁組がどうしても選り好みされて、
その結果、回路の任意の中継地点に女が蓄積されること、
このいずれもが不平等の原因であり、いつ周期の中断を引き起こすやもしれないのである。
・かくして達する結論は次のとおり。
全面交換はanisogamieすなわち身分の違う配偶者間の婚姻にほとんど不可避に通じること。
全面交換の帰結である異身分婚は、
交換周期が多様化または拡大すればするほどに明確に現れるに違いないこと。
だがまた異身分婚は体系と矛盾していても、それゆえ体系の崩壊を招くに違いないこと

・しかし全面交換を脅かす危険要素は、形式的集団構造でなく、
外部から、集団の具体的諸性格から噴出してくる。
そうなると購買婚が全面交換にとって代わり、新しい定式を提供する。

第17章 全面交換の外的限界
・「戦争状態にある二つの村は、言うまでもなく心底から憎み合う。
ところが、敵の村からこちらの村に婚入してきた女たちに、この憎悪は及ばない」(レングマ)
・このような体系では婚姻連帯が社会構造の本質的な基盤をなす。諺にも言うごとく、
「すべての結び目のうちでも結婚がいちばん固い」

第18章 全面交換の内的限界
・このような態度はchotunnurと言われる習俗
―「姉妹・愛人」を主題とするおびただしい民話に彩られた習俗―として、
ヤクートのもとで最高度の発展を見る。姉妹を外婚に出す前に兄弟が彼女の処女を奪うのである。

第2編 漢型体系

第19章 グラネの理論

第20章 昭穆(しょうぼく)配列
・「血縁関係の自然的な区別を同一視しつつ、
なおかつそれらの関係を互いに明晰かつ正確に区別するような分類原理を維持するという困難な課題を、
漢型体系は首尾よく成し遂げたのである」(モーガン)
・古代王朝期中国をありありと彷彿させる社会、つまりインカ帝国のことであるが
―実際、インカ帝国の葬送儀礼はそれに相当する古代中国の儀礼に絶えず比定したくなる―
そこでは交互配列と思われる配列に出会う。

第21章 母方婚
・現在の知見の及ぶかぎり、中国社会は、おおまかに言って、リネージ優勢の封建体制からクラン組織へと進化し、
クラン組織から徐々に父系家族が分離してくるのであって、この逆ではない。

第22章 斜行婚

第23章 周縁型体系

第3篇 インド

第24章 骨と肉
・骨は父の側から、肉は母の側から来るとの信仰

第25章 クランとカースト
・いかなるクラス体系もけっして公理として立てることはできない

第26章 非対称構造
・「はじめにvibe―<ミミズ>トーテムに属すNerheと<ムカデ>トーテムに属すRhekoの縁組―があった。
彼らは互いの姉妹を交換し合った。これが売買であったなら、どちらも相手に負債はないと考えたことだろう。
しかしこの交換は売買でなく、将来にわたる約束、社会契約である。
受け取った女から双方のもとに生まれる子供は、彼女の母のもとから抜けた場所を代わりに占めなくてはならない。
新たな隙間ができるたび、その隙間は同じようにして、
交互に世代から世代にわたって埋められていくのである」(レーナルト:カナク人の縁組の神話より)
多くの集団において、婚姻は娘婿の側に果てしない一連の義務を生じさせる。
逆に、姉妹や娘のような本質的価値を別に男に譲ったとの事実は、譲渡をなした男を投資へと乗り出させる


第27章 互酬周期
・「娘を自分の兄弟の息子に与えて先祖伝来のテリトリーとクランとに一体化することの喜びを、
女は誰でも知っている」(マコネル)
・双方交叉イトコ婚では、Aの男がBの女と結婚すれば、Bの男はAの女と結婚する、
との限定交換法則が婚姻体制を制御する。
母方イトコ婚では、Aの男がBの女と結婚すれば、Bの男はCの女と結婚する、
との全面交換法則が体系の基礎をなす。
・直接交換と間接交換のあいだには一つの本質的相違がある。
直接交換は、この交換に基礎を置きうる体系の数を増やすことにかけてはまことに多産だが、
逆に機能の観点から見たときは、どちらかと言うと貧弱である。
・逆に全面交換は、分類法の観点から見たときはどちらかと言うと貧弱だが
(それの生み出しうる純粋な体系の数はただ一つなので)、しかし調整原理としては極めて多産である。
・婚姻を決定するのは、ここでもどこでも、親族関係そのものではない。
親族関係が婚姻関係へとかたちを変えて互酬構造を築くというそのことが、婚姻を決定するのである。
・互酬構造はつねに二つの異なる視角から定義されうる。
一つはすべての婚姻は同一世代に属す成員のあいだでおこなわれると見る平行的視角、
もう一つは、同一世代に属す成員のあいだの婚姻は二つの隣接世代
(オーストラリアやメラネシアのかなりの数の民族でのように、世代が隣接しないこともたまにある)
に属す成員のあいだの婚姻によって相殺されると見る、斜行的視角である。
・チベットと中国では、父方交叉従姉妹との婚姻は「骨肉の帰り」で、
それが起これば「骨に穴があく」恐れがあるのでいけないとされる。
・ある人間集団が母の兄弟の娘との婚姻を掟(loi)として布告すれば、
ただそれだけで物理学や生物学のloiほどにも調和的かつ不可避的に、
あらゆる世代のあいだ、あらゆるリネージのあいだに、宏大な互酬の輪舞(ロンド)が編成されていく
・「宇宙の体系は思考の体系に合致するはずである。
思考の体系は、じつは人類進化の任意の段階それの表現にほかならない」
(エンゲルス 自然の弁証法)
・思考―未開の思考であれ、文明化された思考であれ―の法則は、
物理的現実のなかに表現される法則、
また物理的現実の一側面にほかならない社会的現実のなかに表現される法則と、
じつに同じものなのである。
・数学者の言葉づかいで言えば、
インセストは互酬性の「極限」、すなわち互酬性がゼロになる点であり、
もっとも高度な互酬形式(母方婚)に対するもっとも低級な互酬形式(父方婚)の位置は、
互酬性一般に対するインセストの位置に同じなのである

姉妹の息子と兄弟の娘との婚姻によってもっとも巧妙な、
しかしまたもっとも脆くもある互酬形式にたどり着いた集団にとって、
姉妹の娘と兄弟の息子との婚姻は、
「社会的インセスト」へのつねに背中合わせの危機を、またそれへの抗いがたい誘惑をなす。
なんらかの解決策として考えられることのありえない、
ゆえに体系の安全性を窮地に陥れることもまたけっしてない生物学的インセストなどより
はるかに強く集団の存在を脅かす、それはインセストである



 
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結論

第28章 複合構造への移行
・任意の個別文化が、あるいは人間の任意の発展段階が限定交換か全面交換のどちらかを発見すると考える、
いかなる歴史的・地理的解釈をも断固受け入れないでいなくてはならない。限定交換のあるところでは、
それは例外なく全面交換を伴い、全面交換もまた外来形式からけっして自由でない。
・「家畜は人間集団のあいだのあらゆる儀礼的関係をとりもつ本質的媒介である」。
家畜はまず殺人の補償と浄化のかたちで生者集団同士を、
次に犠牲に捧げられる供物のかたちで生者集団と死者集団を、
最後に婚姻に作家する集団同士を、媒介する働きを担う。
・lobola(花嫁代価)そのものは受け取られるが早いか、ただ新しい回路を開いていくだけである。
支払いとしての性格がlobolaに認められない根本理由は、たまたま一部が供犠に回される場合を除き、
それが原則としてけっして消費されないからである。
受け取られた途端、新妻の兄弟または従兄弟に花嫁をもたらす再利用がlobolaの目的になる。
要するにlobolaは、織物を貫く糸のごとく、同一集団の成員たちや異なる集団を次から次へと際限なくつなぎあわせていく。
・ウシに乳を飲むことは集団の本性を分かちもつことである。ゆえに女について言えば、
それは大いなるmoukonwana(夫と妻の兄弟と妻のあいだの特別な畏敬を下地にした関係)と
同じ例外的位置にただ身を置くこと、
家畜と交換されるが、交換されることにあらがいつつ交換される姉妹(lobolaの拒絶をめぐる儀礼的口論を想起しておこう)と、
家畜である―言うまでもなく家畜それ自体が集団なのだから―姉妹の、
そのいずれでもあるとの位置的両義性を帯びることであると言っていい。
・購買婚はあらゆる交換形式と相容れる。だが大いなるmoukonwanaに対する禁忌さえあれば、
短周期の形成があらかじめ防がれ、家畜や槍や鍬は一つの広範な回路を確実に完成していき、
この回路のなかに繰り込まれた多数の家族は、
姉妹や娘を与えてしまっても妻を受け取ることはない。
代わりに何を受け取ったのか。妻がいつかは見つかるとの保証を特権財のかたちで受け取ったのである。
要するに家畜や槍や鍬は、カチンの言い方を再び借りれば、まさしくmayu ni「妻の与え手」なのである。
ただ一つ違うのは、これら「妻の与え手」は、
社会集団の具体的な一セクション、そこに属す娘たちに優先権が及ぶところのセクションとして定義されるのでなく、
象徴的価値、証書、もっと正確に言えば、どの家族からでも当の家族が長期回路のなかで、
(債権者である)私の家族に対して順序づけられさえすれば回収可能になる債権に体現される。
・「骨」と「肉」、「剣」と「紡錘竿」の区別を局部的兆候とする、大きな構造的諸性格は、
ホカートとデュメジル氏を正当な根拠から魅惑した仮説、すなわち古代における双分組織の存在を完全に排除する。
・全面交換の単純な諸形式の検討から、すぐさま一つの結論がもたらされた
。単純な形式は単純なままだと持続性がないとの結論である。
全面交換は異身分婚につながる。大きな交換周期に参入している人々は、
異なる身分を徐々に―また交換定式そのものゆえに―獲得していくので、
位階秩序の上位か下位を占めるパートナーからしか配偶者を受け取れなくなるのである。
・全面交換周期によって互いに結びついている集団が、
より限定された構成へと―しばしば対をなすかたちで―下位区分されて二者交換を開始する
・異身分婚規制に内在する矛盾が全面交換周期をいわば膠着させてしまう
・高い社会的地位を占める人物が自分の娘を、身分のいかんを問わずなにか偉業を成し遂げた男に
、もっと理想的には娘自身が自由に選んだ男に嫁として与える特権
・昇嫁婚体系のなかにいる王女にとって、これ以外に結婚の手だてがありえようか。
社会規則が厳格に遵守されているなら、彼女にはそもそもいかなる配偶者も禁じられてしまうのだから。
・「人目を忍ぶ、密かな」、ほとんど密輸に等しいやり方で侵入してくるのは、現代ヨーロッパの婚姻の三つの基本性格である、
すなわち、禁忌親等の範囲内でも配偶者を選べる自由、夫婦の誓いを前にした男女平等等、
最後に親族からの解放と契約の個人化。

第29章 親族の原理
直接的・間接的、包括的・限定的、即時的・猶予的、公然・隠然、閉・開、具体的・象徴的のどの体裁をまとおうと、
交換、つねに交換こそが、婚姻制度のあらゆる様態に共通する根本的土台として立ち現れる

・交換の価値が交換される物の価値に尽くされないこと
交換―ひいては交換の表現である外婚規制―はそれ自体で社会的価値をもつ
人間たちを互いに結びつける手段を、それはもたらすのである。
・消極的よりはむしろ積極的な価値を外婚がもち、他者の社会的に存在することを肯定すること、
もっぱら生物学的家族以外の集団との婚姻を繰り込み、
またそれを命ずるためにのみ、外婚によって内婚が禁じられること。
この禁止がなされるのは、もちろん、
血族婚に生物学的危険がまといついているからでなく、外婚が社会的利益をもたらすからである

外婚は互酬にもとづくほかのあらゆる現象の原型で、
それのもたらす万古不易の根本規則は集団が集団として存在することを保証する

・インセスト禁忌は母、姉妹、娘との結婚を禁ずる規則であるより、
母、姉妹、娘を他者に与えることを義務づける規則、典型的な贈与規則である。
・婚姻が交換であるからこそ、婚姻が交換の原型であるからこそ、
交換の分析は、贈与と反対贈与、特定の婚姻とほかのすべての婚姻とをつなぐあの相互依存性を理解する、その一助となりうるのである。
・こうして婚姻は二つの愛を調停する。血族愛と夫婦愛を。しかしいずれの愛も愛であるゆえに、
婚姻の瞬間だけを他り出して考えれば、そのとき二つの愛は出会いを果たして一つに溶け合う。
・種を存続させるには自然への譲歩をなさねばならないが、また種とともに社会的縁組も存続していく以上、
自然への譲歩と同時に、少なくとも自然への抵抗も必要になるのであり、
自然のあとに付き従っていこうとする所作に、自然を制御しようとする所作をつねに伴わせなくてならない。
・「私有とは非互恵性non-reciprociteである。非互恵性とは盗みである。(略)しかし共有もまた非互恵性である。
言うまでもなくそれは私有を否定することなのだから。
共有すらまだ盗みなのである。私有と共有のあいだにこそ、私は世界を建設してみせるだろう」
(Proudhon,Solution de Probleme social)
・しかしたぶんそれらは、ある根強くも古い夢を象徴的なかたちで表現しているのであり、
この夢のもつ不思議な魅力、人間の思考を知らぬ間にかたどるその力は、
この夢に描かれる行為がいつどこでも文化によって押しとどめられて一度も現実になされたことがないとの、まさにその事実に根ざす
無秩序への、むしろ反秩序への欲望の、それは絶えざる表現なのである。祝祭が社会生活の乱脈さを模擬するのは、
社会生活がかつてそうであったからでなく、一度もそうなったことがなく、これからもけっしてそうなりえないからなのだ

・インセスト禁忌はあまたある禁忌のなかの一つではない
・それはもっとも一般的なかたちの禁忌そのものであって、
ほかのすべての禁忌―いましがた引いた禁忌をはじめとして―のどれもが、
個別ケースとて、おそらくはインセスト禁忌に帰着するのである。
インセスト禁忌は言語使用と同様に普遍的である
・「相互に明確に境界づけられた個別対象に『名前』という、まったく外的で恣意的な記号を付加するためにのみ、
言語は完結した客観的知覚世界に入ってくるのではない。
言語そのものが対象の形成を促す触媒で、ある意味ではまさしくすべての対象を通分する分母なのである」
(Cassirer:Le Langage et la construction du monde des objets)
・言語交通(談話 discous)からコミュニケーションの別領域である縁組に目を転じると、状況は逆の様相を呈する。
象徴的思考の出現は女を、発せられる言葉のように、交換されるモノに変えざるをえなくなったはずである
いずれの神話も人が自分とのあいだでだけ生きていける甘美な世界、社会的人間には永遠に与えられることのないその幸福感を、
過去か未来かの違いはあれ、等しくたどり着けない果てへと送り返しているのである


 

 


 

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