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『贈与の哲学』
−ジャン=リュック・マリオンの思想−
岩野卓司 著
2014年刊 明治大学出版会


フランスの思想家J.-L.マリオンの思想を紹介する講義録

キリスト教系で現象学なので
神がカッコにくくられたり、神に×がついたりします。
さらに神は存在さえしなくなります(キリスト教なのに!)
それでもその先で
もちろん愛で
無限の与えとして………
みたいなことになります。


 

 
 


  第1章 贈与の現象学

・そのうち対価を払うことで、贈与のもつ微妙さ、複雑さを消していこうとする運動を始めました。
贈与は人の間に関係や複雑な結びつきを作っていきますが、お金が介在する交換という形式では、
人の間のめんどうくさい関係はその都度切れて行く。
現代社会はその「切れていく」ことを基礎にして構成されています。
経済学という学問も、それを前提として作られています。
ところが、人類はそれよりはるかに長い間、贈与という複雑で微妙な関係を操作しながら、
社会を営んできました。
ある意味で人とのつながりの基礎には贈与というものがセットされています。
(中沢新一のイントロダクション)

・「何かが存在する」という見方から、
「何かが与えられている」という見方へ転換することで、
「存在」から「贈与」への思考のパラダイム・チェンジが可能なのではないか
・(マリオンは)donationを根源的な贈与の意味、一番根本にある贈与の意味で使っています。
普通の贈与よりも根本的な贈与です。
・「還元」を徹底することで何がわかってくるかというと、究極の原理「還元をすればするほど与えがある」です。
・還元とは、判断を中止することですよね、判断についてカッコにくくること、
つまり、カッコにくくることをどんどん深めていけば、この与えが見えてくるのではないか。
対象とか主体とか客体とか存在者とか存在者性とか、そういった次元で終わらずに、
もっと根本までいくと、「与え」が見えてくるのではないか
というのが、
マリオンの考え方です。
・あらゆる事実とか、あらゆる問題、知、存在者、存在するものは、
すでに与えられているからこういうことがいえるのだ、
だから与えられていることから出発できるのだ。
・フッサールとかハイデッガーの現象学の考え方を踏まえて、
「還元」をより徹底し、与えられたものの問題、
さらには「与えられたもの」の「与え」の問題へと導いていくというのが、
マリオンの基本的な姿勢です。
・ただあるのは、現象が自ら自己を与える事態だけ。
これが「与え」の事態、根源的な贈与の事態なのです。
・マリオンは贈与を考えるときに、
一番重要なのは飽和現象、過剰な現象だと考えます。
われわれが通常意識してそれを構成したりとか、
それを概念化することとができないような神秘的な経験だと。
概念化、意識化を超え出てしまう、制約を受け入れられない、
「私」が支配できないような、そういった経験だというんですね。
・カントは悟性を成立さえるものとしてカテゴリー(純粋悟性概念)を考え、
このカテゴリーがあらゆる概念の基礎となるのですが、
概念とかカテゴリーで支配しようとするものを超え出ていくようなもの、
これをマリオンは飽和した現象だと考えるわけです。

第2章 デリダVSマリオン
贈与をめぐる論争

・たとえば僕が誰かにものをあげるとします。
そこでもらった人が、「あ、贈り物が来た」と気づいてしまったら、
その「気づいた」といことをもって、象徴的等価物を返していると考える←デリダ
・(デリダは)現前の形而上学、現前の思考ではないところで贈与の問題を捉えていこうとするからです。
だからこんなややこしい手続きをとっているわけです。
現れたり、現前したらダメなんです。
・マリオンはこれをさらに推し進めて、そういうフッサールだって、
主体とか客体とか意識とか対象とか、そういう概念を前提にしているではないか、
だったらそういう土台すら還元してみよう、
さらにはハイデッガーが前提にしている存在とか存在者なども還元していこう。
そうすると、与えられているもの、「与え」が見えてくるのでは、
というのがマリオンの立場です。
・すべてを交換に帰着させるのではなくて、
贈与の中にもうまくいかない贈与もけっこうあるから、
ここから、受け取る人、与える人、贈り物などを
省略しながら考えていくことができるのではないか、
それらは還元されて、意識の対象になっていくわけですが、
そこから「与え」という次元に出ていけるのではないか

という発想になってきます。
・「循環」という考えだけでは、
命の連鎖も閉ざされたシステムにすぎません。
今のデリダの例が示すように、
「循環」というかたちで考えが自足してしまうと、
根源的な贈与、あるいは根源に先立つような贈与を
忘れてしまう危険がある
とうことです。

第3章 キリスト教と贈与

・(「眼差しが支配する」・偶像崇拝)われわれの眼差しが、
対象を自分に引き寄せ、それで像を作ってしまう。
本当は見えない神を「まあ、このあたりでいいだろう」
と考えて作ってしまうわけです。
このことは、実際に像を作ることだけでなくて、
われわれのものの考え方においても、
見えないものを見えるレベルまで落として
拝んでいることにつながってきます。
・ヘーゲルのように、神は絶対知だという人もいるわけですが、
マリオンは、こうした概念も偶像化なのではないか考えます。
・マリオンがこの「善としての神」に理解を示しつつも、
この「善性」とは何かと考え、
それは与えることなのではないか、
贈与することこそ神の善ではないか、と結論します。
・マリオンは「愛することは与えることだ」といいます。
神は無償の愛である。相手が受け取ろうが、そうでなかろうが、
無条件に与えることである。
愛する神は、ただ与えるだけである。
「愛」は「存在」や「善」よりもはるかに重要な神の性格を表している

マリオンは考えます。
「存在のない神」は
「愛としての神」であり「与える神」です

無条件に、無制限に与える神である。
「存在」という枠組みすらも突破してしまっているような、
そういう愛する神なんだ、というわけです。

「神が存在する必要がないから存在しないで愛するのであるならば、
定義上いかなる条件も神の発意、広がり、脱自を制限することできない。
愛は、愛するという単純な事実から無条件に愛する。
神もまた限界なく制限なく愛する。」

(マリオン『存在なき神』)
・「なぜなら距離のもうひとつの項である×神×は、
まさに存在する必要はないし、
何であれ存在者の名を受け取る必要はない。
×神×は与える」
(マリオン『存在なき神』)
・そこでベースとなる考えとして、
「現在」とは何かといったら、
それは神の「贈与」なのだ、
神が与えてくれた結果なのだと考えます。
神は過去と未来の両方に影響を与えてそれらを送りあいながら、
神の「贈与」の結果として「現在」が出てくる、
というのがマリオンの時間解釈です。
 
 

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