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『今日のトーミスム』
C.レヴィ=ストロース 著 仲澤紀雄 訳
2000年 刊 みすず書房


『野生の思考』の序説といわれるこの本の内容は
<結局、トーテミスムで『未開』を語るなんて、
今時まったくナンセンスなんだよね〜>である。
そして問題は
トーテミスムという概念で無理矢理縛って
調べれば調べるほど意味不明になっていく
おかしな野蛮人像を作り上げた
人々、学問、社会の偏見にあるということである。
それなら、ナンセンスじゃないものは何かというと
それが「構造」で
この本は、親族関係から神話にひろがる「構造」を
順番にたどって行くその過程にある1冊である。
だからこの本は『野生の思考』の序説でもあり
『親族の基本構造』の補説でもあり
『神話論理』の前の前書きでもある。

まあ、「トーテミスム批判」そのものはわかるとしても
そこからあらゆるものを「構造」として考えることが
適切かどうかは別の話で
さらに、「構造」だから、それでどうした?
というのも、また別の話である。


 


以下、本文より

・トーテミスムという考えは、
まず、キリスト教的思考が本質的なものと考える人間と
自然との間の非連続性という注文と両立しない精神的態度を、
いわば悪魔祓いをするようにして、
われわれの宇宙の外に投げ出すものであった。
・いわゆるトーテミスムを絶対的に定義しようという努力はすべてむなしい。
・≪神話≫という観念は、
自然現象を説明しようとする試みや、口承文芸とか哲学的思弁、
さらには言語過程が主体の意識にのぼった諸例を
一つの同じ用語のもとに蒐集するために
われわれが勝手に用いている思惟の一範疇だ。
同じように、トーテミスムとは一つの人為的な単位で、
民族学者の思惟のうちにのみ存し、
その外ではなんらの特定のものもこれに対応しない。
・拡張してゆく諸集団の分裂
―これが均衡を恢復することになる―
を可能とするような制度化された機構がない限り、
人口の増加はやがてこれら社会を二つの外婚集団に変形することになろう。
・「…分類によって宇宙を汲み尽くそうとする人間精神の志向を考慮にいれること」(タイラー 1899年)
・ほかの場合同様、わたしが辿ろうする方法は次のように要約できる。
1.研究の対象とされた現象を、二つないしいくつかの現実の項、
あるいはそのような項となりうる可能性をもったものの間の一つの関係として定義する。
2.これらの項の間の入れ換えの可能性を表にする。
3.この表を分析の一般的な対象とするが、
この表の次元に限られた場合、分析はいくつかの必然的な結合に達することができる。
最初に問題となった経験的現象は、可能ないくつかの組合せの中の一つにすぎず、
これらの組合わせの全体系は事前に組み立てられるはずだ。
・トーテム幻想は、まず同じ型の現象が属している意味場の歪曲に由来する。
意味場のいくつかの相の犠牲において特別に扱われ、
本来持つべきではない独自性と奇抜さとを付与されている。
それらの相はそれぞれ一変形(ヴァリアント)として
体系全体の構成部分をなしているにもかかわらず、
ただ体系から引き離されているというだけの事実によって、
神秘的なものとされているのだ。
・トーテムということばが、北米五大湖地方の北部に住む
アルゴンキン族のことばオジブワ語から作られたのは周知のことである。
おおよそ“かれはわたしの一族のものだ”
ということを意味するototemanという表現
・かららは言った“それは名にすぎないものだ。”
トーテムを殺すことも食べることも、
その動物に前もって狩猟許可を願い、
あとで許しを乞うという儀礼に従いさえすれば、自由だった。
・ある意味では、この二つの体系―≪トーテム≫と≪マニド≫(聖霊)―は、
一方はほぼ水平線、他方は垂直線を辿って互いに直行するもので、ただ一つの点で交わる。
・これらの制度は、ひとたび与えられると独立した存在を営みはじめる。
好奇心あるいは審美的驚嘆の対象として、
また、その複雑さゆえにより高度の文明型の象徴として…。
これらの制度は、その機能を十分に理解しない隣接の住民たちによって、
そういうものとして借用されることも度を重ねたたに違いない。
・時と所のいかんを問わず観察が示唆していることだが、
自然な利害関係が儀礼化された行為を惹きおこし、
儀礼上の分化が社会的分化に従うということを認めるという二重の条件において、
トーテミスムという問題は消え去り、一つの違う問題に席を譲る。
・類似しているのは類似点ではなくて、相違点なのだ。
と言う意味は、まず、互いに類似している動物
(というのは、動物はすべて動物的挙措を同じくしているのだから)、
ついで、互いに類似している先祖
(というのは、先祖はすべて先祖としての挙措を同じくしているのだから)、
最後に、これら二つの集団の間の総括的な類似があるのではなく、
一方に互いに異なる動物と
(というのは、これらの動物は、それぞれ特定の外見と固有の生活様式とを持った異なった種に属しているのだから)、
他方に、互いに異なる人間―先祖はその一つの特殊な場合を形成している―
(人間は、社会構造の中でそれぞれ特定の地位を占めている社会区分に分けられているので)がある、ということだ。
いわゆるトーテム表象が措定している類似は、これら二つの相異体系の間にある。
・「そこで、かれら(二氏族の成員たち)が
二種の動物種を構成していると宣言するとき、
かれらは動物性ではなく、二元性を強調しているのだ」
(ベルクソン『道徳と宗教の二源泉』)
・「宗教的思惟の論理と科学的思惟の論理との間には深淵はない。
共に、同じ本質的要素からできているが、発展の均衡と様式において異なっている。
特に前者の特徴と見えるものは、極度の混沌および強烈な対照に対する生来の嗜好だ。
この二点で前者はとかく過激になる。
類似を認めたつもりで混同し、相違を求めて対立させてしまう。
節度と微妙さを心得ず、極限を求める。
さらに、この論理は論理的機構を用いるのに一種の不器用さを示すが、
論理的機構のどれ一つとして知らないものはない。」
(デュルケーム『les formes élémentaires de la vie religieuse』)
・ベルクソンが、トーテミスムのいくつかの面を、
民族学者より良く、あるいは民族学者より先に理解することができたのは、
トーテミススムを内側から生きている、
あるいは生きたいくつかのいわゆる未開民族の考えと、
ベルクソンの思想とが奇妙な類似を示しているということではないだろうか。
・「あらゆるものは、動きながら、ある時、
あるいはほかのある時に、そこここで一時の休息を記す。
空飛ぶ鳥は巣を作るためにある所にとまり、
休むべくしてほかのある所にとまる。
歩いている人は、欲するときにとまる。
同様にして、神も歩みをとめた。あの輝かしく、
すばらしい太陽が、神の歩みをとめた一つの場所だ。
月、星、風、それは神がいたところだ。
木々、動物はすべて神の中止点であり、
インディアンはこれらの場所に思いを馳せ、
これらの場所に祈りを向けて、
かれらの祈りが、神が休止したところまで達し、助けと祝福とを得られるようにと願う。」(ドーセー)
・「大いなる創造力の流れが物質の中に奔り出て、
獲得できうるものを獲得しようとする。
大部分の点で流れは中止した。
これらの中止点が、われわれの目にはそれだけの生物種の出現となる。
つまり有機体だ。
本質的に分析的かつ総合的なわれわれのまなざしは、
これら有機体の中に、
数多くのの機能を果たすべく互いに協力している多数の要素を見て取る。
しかし、有機体生産の仕事はこの中止そのものにすぎなかった。
ちょうど、足をふみいれただけで、一瞬にして、幾千もの砂つぶが、
互いにしめし合せたかのごとく一つの図案となるというような単純な行為だ。」
(ベルクソン)
・ルソーは、動植物界の≪特異≫な構造の人間による把握のうちに
最初の論理的操作の源泉と、ついで、考えられてはじめて生きられるようになる社会的分化の源泉とを見ている。
・『人間不平等起源論』は、おそらく、フランスの文献の中に数えられる最初の一般人類学論であろう。
・人間は、まず、自分がすべての同類
(その中に、ルソーがはっきり言っているように、動物もいれねばならない)
と同一であると感ずるから、そのうちに、自分を区別し、
これら同類を相互に区別する能力、
つまり種の多様性を社会的分化の概念的支柱とする能力を獲得することになるのだ。
・まず、場の構成部分として考えられた論理的要因相互間の対立、
ついで、場の内部そのものにおける、≪人間≫と≪人間でないもの≫の対立である。
ところで、ルソーにとっては、これこそ言語の歩みにほかならない。
言語の起源は必要にあるのではなく、情念にあるのであり、
その結果、最初の言語は比喩的なものであったに違いない、ということになる。
・「人をして話さしめた最初の動機は情念であったため、
人間の最初の表現は比喩であった。
比喩的言語がまず誕生し、本義は最後に見つけられた。
事物をその真の姿で見たときに、
はじめて、人はこれをその真の名で呼んだのだ。
初めは、人は詩でのみ語った。
推論することを思いついたのはずっとあとのことだ。」
(ルソー)
・トーテミスムは、それに帰せられた風変わりさが、
これを目で見た者たちの解釈と理論家の思弁とによってさらに誇張されて、
われわれの社会制度から引き離そうとして原始的制度に加えられた圧力を、
一時、強化することに貢献したが、このことは、宗教現象の場合には、
ことさら時宜を得ていた。
この場合には、対比によってあまりにも多くの類縁性が
明らかにされることになっただろうから。
いわゆる文明化した宗教がトーテミスムに接触することによって
解体するのではないかと恐れて、トーテミスムを出来る限り遠ざけ、
必要に応じてはこれを戯画化しながらも
―さもなければデュルケームの例のように、
宗教とトーテミスムの結合の結果は、
両者の特質を失った新しいものを生んでしまう―、
なお、トーテミスムを宗教の中にいれたのは、
宗教的事象にとりつかれていたためであった。
・トーテミスムの現代性はいくつかの省察様式のある特定の例証に還元される。
たいかに、ここでも感情は現れているにすぎない。
いわゆるトーテミスムは、悟性の分野に属する。
そして、トーテミスムが答えるべき要請、
これを満足させる仕方は、まず、知的秩序に属する。
この意味で、トーテミスムはなんら古いものでも、遠隔のものでもない。
その映像は投射されているのであって、受けとられたものではない。
その本質は外から来るのではない。
というのは、もしこの幻想が一片の真理をひそめているとしたら、
それはわれわれの外ではなく、われわれの内にあるのだから。

訳者「あとがき」より
・≪親族の構造≫と≪明白な実利的機能を持たぬ≫神話との中間に
位置しているように見える≪トーテミスム≫が、両段階のいわば橋わたしとして選ばれた

 
 

 


 
 

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