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『悲しき熱帯』
C.レヴィ=ストロース 著 川田順造 訳
2001年刊 中公クラシックス


人類学関連の多くの有名な著作の中でもこれは屈指の名著であり、その名訳である。
おそらくここに記された若きレヴィ=ストロースの経験は
訳者・川田順造も同じように経験していて、骨身に沁みていたことなのだろう。
レヴィ=ストロースの経験が川田に憑依し、
訳を刻む川田のペン先でレヴィ=ストロースが語っているようだ。
ここにはレヴィ=ストロースと川田という二つの精神が二重写しになっている。
そうなるともはや、著者と訳者の区別は判然としなくなって、
川田でもレヴィ=ストロースでも、どちらでもよくなって、
誰でもよくなったところに、
無名で無数の経験の成れの果てとしての人類学が現れてくる。
その存在感がこの『悲しき熱帯』なのである。

   



以下、本文より…

・極めて単純な対立の組合せを核として作られるために、
どの社会でもかなり似通ったものとして生まれて来る文化の型(タイプ)が、
各々の集団の中で異なった社会機能を果たす

・西洋のこの偉大な文明は、われわれが享受している数々の素晴らしいものを
創り出しはしたが、しかしその陰の部分を生むことなしにそれに成功しなかった。

・人類はいまや、本式に単式栽培を開始しようとしている。
まるで砂糖大根のように、文明を大量生産する準備をしているのである。

・これら現代の香辛料は、望むと望まないとにかかわらず疑い物だからである。
それらが、元来純粋に心理学的なものだからそうなのではなく、
物語の語り手がどんなに正直であっても、彼はもはや本当の姿のまま、
それらをわれわれのところへ持ち帰ることができなくなっているのである。

・私の知能は新石器時代の人間の知能なのである。
未開人が耕地にするために草原を焼く火のように、
私の知能は、時に未墾の土地を焼くのである。

・マルクスは、物理学が感覚に与えられたものから出発して
その体系を築いていないのと同様、社会科学は事象という次元の
上に成り立つのではないことを、ルソーに続いて、
私に決定的と思われる形で教えてくれたのである。

・理解するということは、実在の一つの型を別の一つの型に還元することだ

・真の実在は決して最も明瞭なものではない

・私は人気のない甲板で、
これら超自然とも思われる天地の変動を観察することに熱中した。
毎日ほんの僅かのあいだに、日の出と日没は、
天地の変動の始まりと発展と終末を、
それまで私が眺めたこともなかったような広大な水平線の四方で、
形に現してみせるのであった。

・人間と土地のあいだに、旧世界では一千年の親密な結び付きをつくり上げ、
その中で人間と土地とが互いに陶冶されたあの注意深い互恵関係は、
ここでは決して築かれることはなかった。ここでは、土地は凌辱され、
それから破壊された。強奪に似た農業が、横たわっていた富を摑み、
幾らかの利益を毟り取ったのちに、他の場所へ移っていくのであった。

・交通手段の全般的な不十分さは、そのうちの最低の手段を
優遇することになるという歴史のパラドックス

・中部ブラジルが二十世紀初めに落ち込んでいた、
打ち棄てられたような状態は、少しも原始状態を反映していたのではなかった。
それは、海岸地方に樹立さようとしていた近代的生活条件のために
人口と交易が海岸地方に集中する、その代償として支払われた値であった。

・これらの砂は何と柔らかい色をしているのであろう!
まるで肉の砂漠のようだ。
あるいは、桃の皮、真珠母、生の魚肉。
アカバでは、水は、恵みを与えるものであるにもかかわらず、
冷酷な硬さを湛えた青を映し、
一方で、難渋を重ねて生き延びて来たかのような岩塊は、
玉虫色に溶けているのだった。

・アジア的といわれる残酷さの源は、何と明らかなことであろう!
火焙りの薪、様々な処刑、拷問、不治の傷を負わせるために考案された責め道具
―それらは、下賤な者が何者かであろうとしてあなたを何者かに仕立て、
その逆も行われる、そうした卑しい関係の粉飾としての、
凶暴な遣り口から生まれているのではないだろうか?
豪奢の過剰と悲惨の過剰とのあいだの隔たりは、
人間らしさの次元を打ち壊してしまっている。

・もし主人(マスター)が格を落とし、
運転手と同じ部類の者の側に座ることに同時に運転手の格も下げるとしたら、
彼の一族に対する彼自身の威厳はどうなるのだろう?

・悪夢のように飢餓と馴染み合って生きている社会における肥満の詩的価値

・この土地のすべては、異常な甘美さに包まれている。
ヒヤシンスで青味を帯びたこの植物の緑の中や、
サンパンの行き交う沼の流れの水の中には、
人の心を鎮め、眠り込ませるような何かがある。
インド菩提樹が蔓延ったために崩れてゆく赤煉瓦の古壁のように、
人は喜んで自分を腐るに委せるかもしれない。

・ここでは、中世の住民が、工場制手工業時代の直中に一足跳びに追いやられ、
世界市場に餌食として投げ与えられたのだ。

・もし人間が、みな同じ人間として、だが違ったものとして、
互いに認知し合いながら共存することに成功できるものならば、
人間は、人間性という比較可能な一目盛りを互いに拒み合うことによって、
それゆえ従属関係の中に自分たちを位置づけることによってもまた、
同じことを達成できるからである。

・この社会には、われわれが自然と見做す感情に、
著しく逆らっているところがあった。
たとえば、出産に対する著しい嫌悪がある。
胎児や嬰児殺しは、ほとんど当たり前といった風に行われており、
したがって集団の永続は、次の世代を生むことによってよりは、
むしろ、よその子を養育することによって保たれていた。
戦士の遠征の主な目的の一つは、 子供を手に入れることだった。
このようにして十九世紀の初めには、或る計算によれば、
グアイクル族の一集団の成員のやっと十パーセントが、
その集団の血を引いているに過ぎなかった。

・隷属の度合いというものは、その社会の性質の完結度に応じて決まる

・先住民は宣教師たちに向って訊ねた。
「なぜ、あなたがたはそんない愚かなのか」。
「なぜ、われわれが愚かなのか」、宣教師たちは反問した。
「なぜなら、あなたがたは、エイグアイィギ族のように体に絵を描いていないからだ」。
人間であるためには、絵を描いているべきであった。
自然の状態のままでいる者は、禽獣と区別がつかないではないか。

・ルネサンス時代のヨーロッパ芸術がインディオに
何か関係のある暗示を与えたかもしれないが、
それを遥かに凌駕している。

・顔の塗飾は先ず、個人に人間であることの尊厳を与える。
それは、自然から文化への移行を、
「愚かな」動物から文明化された人間への移行を果たすのである。
次に、カーストによって様式も構成も異なるこの塗飾は、
複合的な社会における身分の序列を表現している。
このようにして顔面塗飾は、或る社会学的機能をもっているのである。

・実用品の質素さとは対照的に、ボロロ族は、
彼らの奢侈と想像力のすべてを衣装、
いや少なくともそのアクセサリーに
―というのは、衣装は極めて簡素だから―
注ぎ込んでいる。
女たちは、まさしく宝石箱というべきものを持っていて、
これは母から娘へ受け継がれる。
納められているのは、
猿の歯や豹の牙を木に嵌め込んで細い紐で括った装身具だ。

・死者と生者との関係おいて、結局「二人で分け合う」ことになるのは避けられない

・村を成しているのは、土地でも小屋でもなく、
すでに記述したような或る一つの構造であり、
その構造をすべての村が再現するのである。

・人間の生命は文化の系に属する

・死は同時に自然であってしかも反文化的である

・二重埋葬というのは、まず死体を村の中央に掘った溝の中に安置して木の枝で覆い、
肉が腐るまで置き、それから骨を洗って色を塗り、羽根を色とりどりに貼り付けた後、
籠に入れて湖か流れの底に沈めるのである。

・或る社会が生者と死者のあいだの関係について自らのためにつくる表象は、
結局のところ、生者のあいだで優勢な規程の諸関係を宗教的思考の面で隠蔽し、
美化し、正当化する努力に他ならないということである。

・私自身、北アメリカの民俗学的研究に何年か専念したお蔭で、
今日では私は、西半球は一つの全体として考えられるべきであるということが、
さらに納得できるようになった。

・一連の聖杯伝説が北アメリカの森林インディアンの神話とのあいだに、
他のどんな神話体系よりも著しい類縁関係を示している

・大西洋の深い沈黙に対して、太平洋を取り囲む全域には、
分封する蜂の唸りにも似たざわめきがあった

・これらの深い香りは、丁度ブルゴーニュ産の葡萄酒のように、
時間をかけて口の中で分解してゆき、その思いがけなさ人を面喰わせる←蜂蜜について

・果てしなく新生が繰り返されるこの原野では、
ピカーダによって細長く切り取られた痕跡や捩れた柱のシルエット、
それを繋ぐ逆さまになった弓型が、
イヴ・タンギーの絵にみられるような寂寞の中で漂う、
いかにも不釣り合いな物体に見えてくる。

・これらの道具類は大変不細工で、ほとんど加工品とは言えないようなものである。
ナンビクワラ族の負い籠に入っているのは、原料が主で
―様々な木、とくに擦り合わせて火を作るための木、蝋や樹脂の塊、
植物繊維の束、獣の骨や歯や爪、羽毛、蝟(ハリネズミ)の棘、
木の実の殻、川に棲む貝類の殻、石、木綿、草の実など―、
彼らはそれで、必要に応じてものを拵えるのである。

・夜、家族の焚火を離れ、宿営地の一隅に燃え差しの木を持って行って、
二人だけの火を焚き付ける。それからそこに陣取って、彼らにできる範囲内で、
年長者たちと同じように睦び合おうとする。
大人たちはそうした情景を面白がって眺めている。

・家畜は、子供たちと非常に親密な関係で生活しており、
子供たちと同じように取り扱われている。
家畜は食事に加わり、人間と同じような愛情や心遣いの証(しるし)
―虱取りや、ふざけっこや、お喋りや、愛撫など―
をうけるのである。

・全裸で暮らしている民族も、私たちが羞恥と呼んでいる感情を知らないわけではない。
ただ彼らは、その境界を、違ったところに設定しているのだ。
ブラジルのインディオにおいても、メラネシアの或る地域と同様に、
この境界は肉体の露出の二段階のあいだにではなく、
むしろ、平静か興奮しているかのあいだに置かれているように思われる。

・死後には、男の魂はジャガーに生まれ変わる。
しかし、女と子供の魂は、大気の中に去り、永久に消えてしまうのである。

・この笛で演奏される局は、半音階とリズムの変化とによって、
『春の祭典』の或る件り、
とくに「精霊の働き」と題された部分の木管楽器の音の抑揚と、
驚くほどの類似を示している

・根本的に男が女たち支えられて暮らしているこの時期の生活では、
風や嵐の中に散りぢりになった彼女らの魂のほか何ひとつ残るものとてなく、
人々は風や、寒さや、雨に身を曝しながら、生きるのである。

・暗い草原の中に幾つもの宿営の火が輝いている。
人々の上に降りてこようとしている寒さから身を守る唯一の手立てである焚火の周りで、
風や雨が吹き付けるかもしれない側に、
間に合せに椰子の葉や木の枝を地面に突き立てただけの壊れやすい仮小屋の陰で、
そして、この世の富のすべてである、貧しい物が一杯詰まった負い籠を脇に置き、
彼らと同じように敵を意識し、不安に満ちた他の群れが散らばる大地に直に横たわって、
夫婦はしっかりと抱き合い、互いが互いにとって、日々の労苦や、
時としてナンビクワラの心に忍び込む夢のような侘しさに対する支えであり、
慰めであり、掛け替えのない救いであることを感じ取るのである。
初めてインディオと共に荒野で野営する外来者は、
これほどすべてを奪われた人間の有様を前にして、
苦悩と憐みに捉えられるのを感じる。
この人間たちは、何か恐ろしい大変動によって、
敵意をもった大地の上に押し潰されたようである。
覚束なく燃えている火の傍らで、裸で震えているのだ。
外来者は手探りで茂みの中を歩き回る。
焚火を熱っぽく反映しているのでそれと見分けられる
手や、腕や、胴にぶつからないようにしながら。
しかしこの惨めさにも、囁きや笑いが生気を与えている。
夫婦は、過ぎて行った結合の思い出に浸るかのように、抱き締め合う。
愛撫は、外来者が通りかかっても中断されはしない。
彼らはみんなのうちに、限りない優しさ、深い無頓着、素朴で愛らしい、
満たされた生き物の心があるのを、人は感じ取る。
そして、これら様々な感情を合わせてみる時、人間の優しさの、
最も感情的で最も真実な表現である何かを、人はそこに感じ取るのである

・新石器時代には、人類は文字の助けなしに巨歩を進めたのである。

・識字率を高める運動は権力による市民の統制の強化と融合する。
なぜなら、権力が「何人も法を知らないとは見做されない」と言い得るためには、
すべての者が読むことを知っていなければならないのだから。

・二つの群れの出逢いは、それが平和的に行われる時には、
一連の贈り物のやりとりをもたらす。
葛藤が市場に変わるのである。

・交換が済んだ時、当事者の一方の集団がその取り分に不満なまま引き揚げ、
何週間も何ヵ月ものあいだ(得たものを総浚いし、与えたものを思い出してみながら)
不快感を鬱積させて行き、それが次第に攻撃的な感情に
変わって行くとしても驚くに当たらない

・このようにして始められた外征も、
多くの場合、数キロ歩いたところで終わってしまう。
興奮と熱狂が醒め、一行は宿営に戻る。

・首長の政治力は、共同体の必要から生まれたものではないように思われる。
むしろ集団の方が、集団に先立って存在している首長になるかもしれない男から、
主運団の大きさや、さらに形成の過程など、一定の性格を授けられるのである。

・モンテーニュはインディオの一人に、
お前の国では首長(モンテーニュは王と言った)の特権は何なのか、と尋ねている。
それに対して、彼自身首長だったこの先住民は、
それは戦いのとき先頭に立って進むことだ、と答えた。
←『エセー』第1巻第31章

・彼が示さなければならないのは、全権を掌握した君主としての力量ではなく、
むしろ、不確定な多数の同意を維持しようと努める政治家の手腕

・最も単純な表現にまで還元された社会を、
私は探していたのではなかったか。
ナンビクワラ族の社会がそれであった。
私はもうそこに、人間だけしか見出さなかった。

・私はだから、かつての旅行者たちの経験を、
そしてこの経験を通して近代思想のあの決定的な時代を、
再び生きようとしていたのだ。
この時、大発見のお蔭で、自分が完全で完結していると思い込んでいた一人類が、
突然、反・啓示とでもいうように、彼らだけが人類なのではなく、
彼らはもっと大きい社会全体の一部分を成しており、
彼らが己自身を知るためには、まずこの鏡で、
自分とは思えないような姿を熟知すべきであることを、告げられたのであった。
この鏡の、何世紀も忘れられていたひとかけらが、
私一人のために、その最初の、そして最後の反映を投げかけようとしている。

・これらの社会は、人類のあれほど大きな、
あれほど無垢な部分にとって怪物じみた訳のわからない大変動であった、
あの西洋文明の発展によって、打ちひしがれていたのである。

・夜が更けるにつれ、この詩的創造が意識の喪失を伴ったものであり、
俳優はかれが演じている人物に乗り越えられてしまっているということに気付く。
彼の様々な声は彼にとって我が物ではなくなり、
ひとつひとつの声が如何にも鮮やかな特性を帯びて来るので、
それらが一人の人間に属しているとは信じ難くなる。

・ほとんど人の目に曝されたことのない幾つもの地方を旅したり、
私にとっては数千年の時の流れを遡る代価
―その代価をまず払ったのは先住民だが―
であった欠乏の中で先住民と生活を分かち合いながら、
私はもうそこに、私の求めていた民族の景観も見なかった。

・社会生活とうものは、それに香気を与えるものを打ち壊すことで成り立っている。

・どんな社会も完全ではない。
あらゆる社会は、
その社会が宣揚する規範とは両立しない不純さを元来含んでおり、
そうした不純さは、様々な割合で配合された不正、
無感覚、残忍となって具体的に表れている。

・アントロポファジー(人間を食うこと)の慣行をもつ社会、
すなわち脅威となる力をもつ個人を食ってしまうことがその力を無力にし、
さらに活用しさえするための唯一の方法である見做している社会と、
われわれの社会のようにアントロペミー(人間を吐くこと)と
呼び得るかもしれないものを採用している社会

・西洋世界が民俗学者を生み出したにせよ、
それは一つの大層強い悔恨が西洋世界を苦しめたからに相違なく、
西洋世界は已むを得ず、彼の姿を他の社会の姿に向い合わせて、
他の社会も瑕瑾(きず)を映し出すのではないか、
どのようにしてその瑕瑾が西洋世界に育まれてひどくなったのかを説明するのに、
他の社会は西洋世界を助けてくれるのではないかという望みを抱いている

・民俗学者の立場に内在する矛盾するからわれわれが抜け出すには、
『人間不平等起源論』が遺した廃墟から、
『エミール』がその秘密を瞥見させてくれる
『社会契約論』の広々とした構築へとルソーが進んで行くことを可能にした
あの遣り方を、われわれなりに繰り返す他は全くない

・ルソーが、人類は
「未開状態の無為と、われわれの自己愛の手に負えない活動との丁度中間」
を保った方が、われわれの幸福のためによかったかもしれないと言ったのは、
恐らく正しかったのであろう。

・何千年来人間が成功したのは自分自身を繰り返すことでしかなかったと知れば、
原初の名状し難い偉大さを、陳腐な繰り言の数々を超えて
考察の出発点とするという考えのあの高貴さに、われわれは到達するであろう

・人間は同時に至る所にある。
人間は諸段階の全体を、絶えず要約して繰り返しながら一列になって進む群れである。

・世界は人間なしに始まったし、人間なしに終わるだろう。
制度、風俗、慣習など、それらの目録を作り、
それらを理解すべく私が自分の人生を過ごして来たものは、
一つの創造の束の間の開花であり、それらのものは、
この創造との関係において人類がそこで自分の役割を演じることを
可能にするという意味を除いては、恐らく何の意味ももってはいない。

・人間は、呼吸し、食物を獲得するようになってから、
火の発見を経て原子力や熱核反応機関を発明するまで、
人間を再生産する場合を除いて、喜々として無数の構造を分解し、
もはや統合の可能性の失せた状態にまで還元してしまう以外、何もしなかった。


 
 

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