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『タテ社会の人間関係』
中根千枝 著
1967年刊 講談社現代新書


50年も前に書かれた本なのに、
いまだに版を重ねながら新鮮さを保ち続けている現代日本の古典
現象ではなく構造、社会風俗ではなく社会モデルを抽出して書かれたものなので
時代が変化しても簡単には風化しないし、
その構造そのものも簡単には変化しないので、常に参照され続けるのである。

もちろん今から見れば、それなりに人々の意識は変化しているし、
書かれていることに古風な印象も受けるが、
それらは暗黙の了解として存在する社会構造の上で
起きている変化であるとも言える。
例えば大企業のトップ人事で、比較的若い人が選ばれると、
30人抜き大抜擢などと言われて騒がれる。
意識は変化しているので能力による起用は普通に起きているのに、
序列構造が残っているので○人抜きという表現になる。
序列がなければ、そもそも抜くべき順番も存在しない。

このモデルに気が付いたのは、著者が女性であったからだろう。
当時の日本で女性で学者で東京大学でインドでチベットで、
という全く非体制的でマイノリティな存在であり、
日本とアジアとヨーロッパと都市と田舎と女性社会と男性社会とを横断して、
それらを俯瞰する視点を得ていたのである。
そしてその視点を生かすための明晰な頭脳と猛烈なバイタリティがあった。

著者は今年で90歳になられますが、
自らの歩むべき道をしっかり歩まれてきて、
おそらく老いても
死ぬまでお元気なのではないか、
という気がします。

 


以下、本文より…

・集団構成員の異質性からくる不安定さを克服するために、
集団意識をつねに高揚しなければならない。
そしてそれは多分に情的に訴えられるものであるから、
人と人との直接接触を必要とし、また、その炎をたやさないためには、
その接触を維持しなければならない。

・集団所属というものが、直接接触の単なる長短によって形成されるのではなく、
社会人として個人の一生のうち、きわめて早い時期に形成され、
定着するものであるからである。

・場によって個人が所属するとなると、
現実的に個人は一つの集団にしか所属できない

・日本では、これは口答えとして慎まなければならないし、
序列を乱すものとして排斥される。
日本では、表面的な行動ばかりでなく、
思考・意見の発表までにも序列意識が強く支配しているのである

・日本的イデオロギーの底にあるものは、
極端な、ある意味では素朴(プリミティブ)ともいえるような
人間平等主義(無差別悪平等というものに通ずる、
理性的立場からというよりは、感情的に要求されるもの)である。
これは西欧の伝統的な民主主義とは質的に異なるものであるが、
日本人の好む民主主義とは、この人間平等主義に根ざしている。

・いわゆる旧い家とか、格の高い家、地主などといわれるものは、
一見、いかにも先祖代々連綿としてその地位を保ってきたようにみえるが、
実際調査してみると案外新しく、村落一つとっても、
家々の興亡の歴史は煩雑であり、上・下のモビリティは、
他の国々の農村におけるより、ずっと顕著にみえるのである

・この分業の志向が強いと、それぞれ一定の役割をもつ集団が
お互いに緊密な相互依存の関係にたち、社会全体が集団間を結ぶ
複雑なネットワークの累積によって、
一つの大きな有機体として社会学的に統合されることになる

・このように、その一群、一群が明確な集団を形成し、
極端にいえば自己完結的なワン・セットを構成しているのがつねである。
他の集団を必要とせず何もかも自分のところでできるわけで、
構造的に、まさに分業精神に反する社会経済構成ということができる

・孤立した諸集団を統合する行政網は、
同時に各集団の内部組織である「タテ」の線を伝わり、
その集団の底辺にまで難なく達することができ、
それによって世界にちょっと比類のない徹底した行政網が完備し、
全人口に浸透したのである。

・個々の成員はそれに直接つながる人間関係に忠実であるのではなく、
集団の規則(ルール)自体に忠実であることによって、
集団構成の基盤ができている

・日本におけるあらゆる現実の集団が、
必ずXの構造を基本とするヒエラルカルな組織をもっているということではない。
しかし、重要なことは、集団の機能が強くなればなるほど、
その方向に人間関係が構築されていくという構造を内包しているということである。

・「タテ」のエモーショナルな関係は、
同質のもの(兄弟・同僚関係)からなる「ヨコ」の関係より、
いっそうダイナミックな結びつき方をする。
古い表現をとれば、保護は依存によって答えられ、
温情は忠誠によって答えられる。すなわち等価交換ではないのである。

・日本の場合、極端にいえば、リーダーは集団の一部にすぎない。
そのために、リーダーにとっては、
集団を自己のプランに応じて動かす自由が非常に制約されている。
いっぽう、集団がリーダー一人に責任を負わせ、
時によっては、彼を冷たく切り捨てるといったような危険性もない。

・近代西欧のディレクターシップにおいては、
何よりも、リーダーと部下の間に約束があり、
そのルールによって一定のミーティング・ポイントが決まっているから、
どちら側も一定以上の力を行使することができない。

・天才的な能力よりも、人間に対する理解力・包容力をもつということが、
何よりも日本社会におけるリーダーの資格である。
どんなに権力・能力・経済力をもっと者でも、
子分を情的に把握し、それらによって彼らと密着し、
「タテ」の関係につながらない限り、
よきリーダーにはなりえないのである。

・この老人天国は、決して日本人の敬老精神から出てくるものではない。
それは、彼がその下にどれほどの子分をもっているか、
そして、どのような有能な子分をもっているか、
という組織による社会的実力(個人の能力ではない)からくるものである。

・序列偏重で一見非常に弾力がなく、硬直した組織のようであるが、
これは同時に、驚くほど自由な活動の場を個人に与えている組織である。

・共通の目的・仕事の達成に責任感がないといおうか、
よしあったとしても、
個々人にとっては、それ以上に人間関係が重視されるという、
きわめてエモーショナルな性向が認められるのである。

・戦後とみに盛んになった新興宗教集団が、
魅力的なリーダーをもち、
直接接触を媒介とするエモーショナルな「タテ」の線を
集団組織の基幹としていることも注目に値する。
創価学会の折伏による「タテ線」、立正佼成会の「親・子」関係は、
その典型的なものである。

・このあまりにも人間的な―人と人との関係を何よりも優先する―
価値観をもつ社会は宗教的ではなく、道徳的である。
すなわち、対人関係が自己を位置づける尺度となり、
自己の思考を導くのである。

・宗教が基本的な意味で絶対性を前提としているのに対して、
道徳は相対的なものである

・日本人の価値観の根底には、
絶対を設定する思考、あるいは論理的探究、といったものが存在しないか、
あるいは、あっても極めて低調で、
その代りに直接的、感情的人間関係を前提とする
相対性原理が強く存在しているといえよう

・日本人は、論理よりも感情を楽しみ、論理よりも感情をことのほか愛するのである


 
 

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