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『贈答と宴会の中世』
盛本昌広 著
2008年刊 吉川弘文館


タイトル通り中世の贈答と宴会について記された本である
中心テーマは「接待の慣行」「年中行事と贈答」
「水産物の贈答」「甘いものの贈答」である

 


以下、本文より…

・贈り物には原則として、生臭物のなかでも海の物が必要であった

・海の物は魚のみでなく、昆布・海苔・スルメなど現在の生物学的分類でいえば、
貝・海草。軟体動物も含まれ、現在の贈答品にも多くみられる。
こうした海の物が贈答品とされた理由に関して、
柳田は日本人の先祖が海と親しい生活をしていた名残りと推測している。

・海産物は宴会の席でも重要な位置を占めた。
大永8年(1528)に伊勢宗五が記した故実書(儀礼の先例を記したもの)には、
式三献と呼ばれる正式な宴会に出される膳が描かれている。
式三献では三つの膳が出される。最初の膳には大中小の白土器(かわらけ)が
重ねて置かれていて、これを使って三回酒を飲むのが習慣である。
白土器の下には打蚫(うちあわび)が三本置かれている。
打蚫はのしと同じもので、鮑を打って薄く伸ばしたようにみえるので、
この名があるのだろう。
ほかに生塩・生姜・梅干・海月も添えられている。

 



・病気の治療も歓待の一種で、中世の日本にも同様の施設があった←hospital.hotel
また、天皇や将軍のような上位者が下位者に薬を与えたり、
病気を治す効果があると信じられているものを贈り、
恩恵を示すこともあった。
・年貢散用状によれば、小屋には引出物の代金として、
七百五十文が計上されており、同額の銭が引出物として贈られたとみられる

・永和元年(1375)になると、催促の使者にも引出物が贈られるようになる

・形式的には任意ではあるものの、実際には強制的な支払いの要求であり、
寺社への寄付を募るという勧進が強制に転じていく←応永27年(1420)

・引き渡しの使者、次に催促の使者、
さらには力者や中間という身分的に低い者にまで、
引出物の贈与相手が拡大していった

・一般的には一献料と呼び、
室町時代に免除や訴訟で自己を有利にするために
担当奉行に贈られた銭を指し、
酒肴料とも呼ばれていた

・文和3年(1354)に赤松氏家臣佐渡入道が病気になり、
訪(とぶらい)として茶子(ちゃのこ)代350文を贈っている

・薬玉は現在では運動会や式典で使用されるが、
本来は古代以来の朝廷の年中行事で、
邪気を払うために、麝香など香料を錦の袋に入れ、
造花や蓬・菖蒲などで飾り、
五色の糸をたらしたものである

・八朔の贈答は身分差自体は当然存在するが、
贈答をお返しと表現することで、一種の対等の関係が生まれ、
それが八朔の贈答が盛んになった一因ではないだろうか

・禅宗寺院は中国的な溢れていた所であり、
唐物で飾りたてられていたのである。
足利氏をはじめとする武士たちも禅宗に帰依し、
さまざまな機会において接触するうちに、
堆朱などの漆器を獲得していたのである。

・「御返」は八朔特有のもの

・八朔に限らず当時の贈答は贈られた物を別人に贈るという
使い回しが一般的に行われていたが、
品不足になる場合も当然ありえただろう

・美物(びぶつ)献上は高い家格を持つ家によって行われるもので、
献上する家にとっては負担ではあるが、
同時に名誉として受けとめられていた
(美物←おいしいもの、魚鳥類)

・精進解(しょうじんとき)は以前は広く行われていた民族慣習で、
精進の状態から脱し、日常生活に戻るため、
生臭物つまり魚や鳥獣の肉を食する行事で、
精進落、精進ほどき、精進直(なおし)とも呼ばれる。

・土産は本来国衙(こくが)へ納入する各地の特産物という意味

・煤掃(すすはき)の御祝として、雑煮が出され←12月27日

・中世の絵巻物で、扇で顔を隠し、
骨の間から特別な光景をみる人がしばしば描かれているが、
これには穢れを防ぐ意味があった

・贈答品と年貢は一体のものであった

・鰯の大量流入は京の人々が副食として鰯を常用
・海鼠が鰯に次ぐ量←瀬戸内からの積荷(文安2年1445年)

・粟津座(粟津・橋本の供御人)の扱う商品は魚棚で、
他の商人と売買(卸売)を行うよう定めている

・古代以来、琵琶湖には朝廷や神社と結びついた
供御人(くごにん)や神人(じにん)が存在し、
魚を貢納する代償として湖内において
自由に漁業ができる特権を与えられていた。
なかでも、先に述べた粟津・橋本・菅浦・安曇川などの
供御人、供祭人(くさいにん)、神人は
中世に湖上で多彩な活動をしていたことで知られている

・堅田は鴨御祖社(かもみおやしゃ・下鴨神社)の御厨で、
その住人は同社の供御人となり、琵琶湖全域で漁ができる特権を与えられていた

・現在、寿司屋では鮓を桶に入れて配達するが、
その源泉は室町時代の鮒鮨の桶であったと思われる

・鮒鮨は本来神への供物であった。こうした神への供物が
室町時代には贈答品として一般化していたのである

・盂蘭盆会は死者を弔う同時に、
米と畠作物両方の収穫を祝うものであった

・焼米は贈答品にもなっているが、神仏への供物であったものが
贈答品に転化することが一般的であり、
焼米の場合も同じような過程で転化を遂げたのだろう

・海藻の中で昆布が祝儀性が最も強かったが、
室町時代に蝦夷地の昆布が流通することで
一般にも広まっていった

・荒巻とは竹の皮やわらなどで、 魚や鳥獣の肉を巻いたものを意味し

・信長が「裾分け」と述べていることに象徴されるに、
鯨は一人で独占しないで、なるべく多くの人に分ける慣習があり、
配分先は朝廷にまで及んでいた。

・寄鯨も寄物の一種であるが、公儀に献上されるのは、
寄物が寺社に寄進される慣習と関係する

・日本において、砂糖が普及するのは室町時代以降

・甘さは単なる味覚であることを超えて、
天皇という王権の根幹に関わる意味を持っていた
←甘露

・柑子の木を譲ったり、庵の庭になる柑子を配分する
規定がなされることもあり、柑子は希少性ゆえに財産に財産になっていた

・応永26年(1419)11月26日条には、
貞成(さだふさ)親王の父大通院(栄仁親王)が
故北山殿(足利義満)に毎年蜜柑を贈っていた旧例により、
はじめて蜜柑二合を足利義持に進上した

・こうして贈答をしておけば、 いざ自分が病気になった際には、
逆に人々から食物を贈られて援助を受けることができた

・(接ぎ木・挿し木・取り木など)これらの技術は
古くからあり、中世の資料にもいくつかみえる。

・貴族の間では桜などの優れた庭木を増やすために、
こうした技術を駆使していた
・室町時代は現代につながる菓子の原型ができた時代。

・(室町時代の点心として)饂飩・饅頭・索麺(素麺)・羊羹

・『多聞院日記』には砂糖を堺で購入している記事が散見し、
奈良では堺の二倍の値段であるとも述べている(天正8年)

・砂糖は平安時代の貴族の間で贈答されていた事例があるが、
当時は輸入量はわずかであり、室町時代に日明貿易により
輸入量が増大し、戦国時代の南蛮貿易によりさらに増加した

・柳田は仏教が日本に入る前から精進にあたる言葉があり、
それが「イモヒ」であるとしている

・中世や近世の日記を読むと、
つきあいのある人からものが贈られてきた記事で
埋めつくされていることに気づく

・行事への不参加は秩序からの離脱であり、
みずからを危険な状況に置くことを意味した

・中世や近世には特定の日に同一の行事が
上は幕府や朝廷、下は村落で行われていた点に注意を向ける必要がある。
明治以降、天王が国家や国民としての統合の象徴となったが、
こうした年中行事にも同様の機能があった。
さまざまなレベルで行われる年中行事で使用されるものは
村落から公事として納入され、
それが贈答されたり、宴会で食べられたりする。
将軍や天皇と村落の人々は同席することはできないが、
同一行事の実行や公事の納入により
村落と将軍や天皇が結ばれて、統合されたといえる


 
 

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